風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
――ヨハネによる福音書 第3章8節
二つの土地を往来しながら暮らすようになって、半年以上が過ぎた。
新潟の故郷の家は海辺の高台にある。書斎の窓はオーシャンビューではないが、遠い山並みが美しい。冬は白鳥、夏はカモメが広い空を横切り、西風が強く吹く日には潮騒が聞こえることを、移住してはじめて知った。
「風が変わったね」と、風についての会話をするようにもなった。夏、日本海側から吹く南西の風を「くだり」と言うが、これはどちらかといえば熱風で、北から吹いてくる「下風(しもかぜ、颪)」が喜ばしい。山越えの乾風は「だし」と呼ばれていて、これは海岸から沖に吹き出す風、という意味だそうだ。
盂蘭盆を過ぎると、秋めいた風を感じる日も多くなる。波音の混じりの風に吹かれていると、思いが自由に飛び回りはじめる。
●ON THE SHORE
半年間、小説『F ショパンとリスト』執筆のため隠棲したが、月に一度の旅と海辺の散歩は欠かさなかった。この夏「買ってよかったもの」を時計回りに。
1. ATHLETIA「スキンプロテクション UVジェル 50」と「リフレッシング デオドラントミスト」/レモンやローズマリーの清々しい香りと潤いのおかげで、つけるのが苦にならない日焼け止め。薬用デオドラントもまた、ジュニパーベリーやユセダーウッドの凛とした香りがクセになる。アロマルームミストは2代目。
2. 松栄堂「空蝉香」の匂い袋/6月の京都滞在の記念に。源氏物語に耽溺した春に出会った「空蝉」の香りを、夏らしい匂い袋に入れてもらった。ホテルの部屋で愉しめるのも◎。
3. HISTOIRES de PARFUMS「1804 Georges Sand」/小説刊行を祝し、友人姉妹が贈ってくれた夏らしい香水。1804年生まれの作家ジョルジュ・サンドの寛大さと官能性を体現する、オリエンタルフローラルアンバー。 みずみずしいトロピカルフルーツがやがて白檀に変化し、深く漂う。再会した旧友の「あなたは絶対これ」という言葉が誇らしかった。
4. NARS「ライトリフレティングプリズマティック パウダー」/7月、舞台再演に伴いサイン会が行われたため「ひさしぶりにきちんとしたメイクを」と誂えたセッティングパウダー。マーブル模様のパウダーが光を反射し透明感を上げてくれる。
5. myse「スカルプリフト アクティブ プラス」/EMSで頭筋と表情筋を刺激できる美顔ブラシ。隠棲によるもたつきが解消したのも嬉しいが、予想以上のヘッドスパ的効果が◎。バスルームで簡単に使えるのもよい。
●KYOTO
6月の終わり、宝塚観劇の滞在地として京都を愉しんだ。
執筆を離れ、気持ちを整えることがテーマだったので、糺の森を散策して下鴨神社で祈ったり、烏丸御池界隈で現地の友人と落ち合ったり、ホテルで読書したりネイルサロンで爆睡したりと、いたって呑気に過ごした。
印象的だったのは、はじめて訪れた四条大橋西詰の東華菜館 本店。1926(大正15)年竣工のスパニッシュ・バロック様式で、 設計はW.M.ヴォーリズ。シンプルな直線と曲線を組み合わせた装飾、モノトーンと赤、翡翠色の抑えた色彩、窓からは対岸の南座が映えて美しい。「ショパン推し」の友人と食べた北京料理の味わいは懐かしく、日本最古のエレベーターにも驚嘆した。
錦市場から程近い堺町通り、オ・グルニエ・ドールの跡地では、京都老舗・小川珈琲の新店舗に遭遇。町屋を改装し、中庭を挟んで奥の離れで朝食―― 炭焼きトーストと麹バター、目玉焼きとポテト入りソーセージをいただく幸せといったらなかった。
京都駅に降り立ったとたんの多幸感は何なのかと、毎回思う。
少し歩けば鴨川があり、遠景には山々。繁華街を離れればのどかに広がる町家の通りは、どこか故郷にも似ている。
しかし京都には隅々まで、知性と趣が漂っている。音なのか、香りなのか、そういう目に見えない引力のように、普段づかいの街に品がある。烏丸通を進むとき、小さな横断歩道でみんながしっかり立ち止まる、そういうリズムが心地いい。 そこに暮らす人の矜持や余裕のようなものなのかな、と考えている。
●MOVIE
旅といえば、そろそろ南仏のヴァカンスに出かけたい。
7月のはじめ、内覧試写に招んでいただいた映画『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』が、すばらしき旅映画でもあったからだ。
言わずと知れた人気英国ドラマ、劇場版第2作である。舞台は1928年。ハリウッド映画の撮影に湧き立つダウントンと、光あふれる南仏。ふたつの舞台で巻き起こる物語はやがて交錯し、新時代のはじまりを告げる。
写真は、南仏の別荘でテニスするイーディス夫妻とトム夫妻。 英国の曇り空の下では味わえない解放感、1920年代アール・デコの息吹も満載で、アガサ・クリスティの旅情ミステリを読みたくなった。若き日のヴァイオレットをめぐる謎もいい。こんなにしてもらっていいのか、と感無量のままクライマックスを迎え、号泣で立ち上がることができなかった。
群像劇の主役はなんといっても、去りゆくヴァイオレット(マギー・スミス)。新旧映画界や使用人たち、そして伯爵夫人から孫娘メアリーへの「継承」の物語である。
「手強い女でありなさい」
偉大なる貴婦人の言葉を、心に刻んで生きたい。
●BOOKS
読書もまた旅である。夏期休暇の読書、前半の課題図書(漫画以外)は以下のとおり。
『営繕かるかや怪異譚』小野不由美、角川文庫/8月に入ると、日本の夏特有の湿度と翳りを、端麗な文章で味わいたくなる。2020年より恒例の小野不由美フェス、『屍鬼』『ゴーストハント』に続き今年はこちら。著者の作品に通奏する「怪異との共存」に心やすまる。最新3巻も刊行された。
『薫大将と匂宮』岡田鯱彦、創元推理文庫/大宰府の友人が贈ってくれた王朝ミステリ。源氏物語に幻の続編があったことを示す紫式部の手記には、「宇治十帖」の二人の貴公子の恋をめぐる殺人事件が描かれていた。貴公子たちはもちろん、式部と清少納言のあいだの巨大感情に思わずニヤリ。
『ペーパー・リリイ』佐原ひかり、河出書房新社/詐欺師の娘と詐欺被害者の女が、500万円を持ち出し、“幻の百合”を目指して一週間限定の旅に出るロードノベル。デビュー作『ブラザーズ・ブラジャー』のみずみずしさはそのまま、「愛」や「恩」というしがらみを軽やかに突破していく女たちと、終着点のカタルシスが爽快な読後感をもたらす。「あたしのうそものはだれかのほんもの」など、忘れられないフレーズも多数。
『窓辺の愛書家』エリー・グリフィス、上條ひろみ訳、創元推理文庫/海を臨む部屋で本を読んでいた老婦人の死は、やがて出版業界を巻き込む連続殺人へ――昨夏のヒット作『見知らぬ人』の続編となる英国ミステリ。シェイクスピアの引用もあいかわらずだが、今作ではカプチーノとカモメの声、〝黄金時代〟の推理小説が恋しくなる。刑事ハービンダーと美しき介護士、彼女に恋するカフェ店主、そして孤独な老紳士。それぞれが自分の過去と向き合いながら絆を深め、真相にたどり着くクライマックスがたまらない。「人は本のなかで世界を旅することができる」と教えてくれる幕切れが、心からいとおしい。
グリフィスの余韻で、今週はミステリーウィークに突入。クリスティ、エラリー・クイーンから小沼丹、恩田陸まで。古今東西の探偵の“初登場”を、再読も含め読み漁っている。
書き出しの一行目から心を掴まれる物語に出会ったときのときめき、そのシリーズが続くときの歓びは何物にも代えがたい。そうして読み終えて、私も書きたい、という衝動に駆られたとき、いつもこの言葉を思い出すのだ。
「いいものを読むことは書くことよ。うんと言い小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない?」
――恩田陸『三月は深き紅の淵を』
●ROOM WITH A VIEW
月に一度、最長で二週間ほど。眺めのいい部屋で寝起きし、仕事や人生を俯瞰している。
もともと帰る予定のなかった海辺の故郷に移住したのは、この2年半の激動がきっかけだった。
独立して12年。数年前から視野に入れていた創作への移行を目指して、全身全霊で学びたい。そんなタイミングが重なったことも大きい。大学教授がサバティカル(研究休暇)を取るように、1年くらいはのんびり読書して過ごすのもいいと思っていた。目標よりずっと早く小説刊行が実現し、生まれて初めての重版出来まで経験できたのは、たくさんの友情と幸運のおかげだ。
延々と、編み目をつなぐような日々だった。小説には、情景や動作を的確にデッサンする基礎体力が必要だ。文筆を生業にして絶え間なく書き続けてきたつもりだったが、これまでとは使う筋肉がまるで違う。画家志望がスケッチを重ねるように、観察と描写を繰り返さなければならなかった。はじめは空振りばかりだったし、筋肉痛もひどかった。脱稿したあとは恐怖(「発売日鬱」と呼ばれるとか)で押しつぶされそうにもなった。
だからこそ、今の幸福がある。こつこつ紡いだ文章で誰かが心を動かしてくれること以上の喜びはないと、手紙が届くたび噛みしめている。これははじまりの一歩である。
二拠点生活をはじめてから、目に映るものすべてが新鮮で驚く。どちらにいても旅人のようだし、どちらにいても心から安らぐ。風のように往来する暮らしが、性に合っているのかもしれない。
旅人の視点は、物語を生む。故郷の風に、町家通りに飾られた花に、友人たちと語り合う東京の夜に、新しい物語が潜んでいる。だから、暮れなずむ西の空の片隅で灯台の光が瞬くときの寂しさや、対岸から眺める摩天楼の色を、すべて書き留める。いつか書くはずの小説のために。
いずれは京都でも暮らしたいし、世阿弥のいた佐渡にも渡ってみたい。だって「物語」さえあれば、どこでも暮らせる。どこへでも行けるし、どんな人にもなれる。
そんな「物語」を書いて、かつての自分のような人たちに届けたいと願いながら、今年も夏を送っている。
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