マンシーニの朝

快晴。
昨夜見た映画の気分を持ちこし、ヘンリー・マンシーニを聴きながら街を歩く。

ムーン・リバーもいいが、表題作ともいえるBreakfast at Tiffany’s (ティファニーで朝食を)がすき。
仲直りしたホリーと「僕」が手をつないで、晴れた五番街を歩くシーンで流れる。
朝食前のシャンパンではじまり、図書館にティファニーにチャイナタウンの万引き、はじめてづくしの一日。
おそらくこのあたりの記述からを脚色したのだろう。

夏のおわりから秋のはじめにかけての、それからあとの、さいごの数週間の記憶はぼやけていて、どうもはっきり思い出せない。それはおそらくおたがいの気心がよくわかって、なにかいうよりむしろ黙っていたほうが通い合うほど二人の友情が深まっていたからであろう。静かな愛情が、友情の持つ、もっと派手で、表面的な意味ではもっとドラマティックな瞬間を生み出す、あのせかせかしたおしゃべりだとか、たえずくっつきまわるとかいったような緊張にとってかわるものだからだ。
『ティファニーで朝食を』(龍口直太郎訳、新潮文庫)

映画ではこれがロマンスの予感として描かれる――だからこそそれを恐れるホリーは「僕」との距離をおくのだが、明示されているとおり原作のふたりはあくまで友人同士であり、ラストでも「僕」はホリーの面影を懐かしむだけである。
しかし、こういうかたちの友情は恋よりも恋らしく、純粋で、ロマンス映画に仕立てた監督の気持ちもわかってしまう。
(そしてそれに異を唱えた原作ファンの気持ちも。)
 
穿った作品論はまたの機会にしよう。
とにかく原作にはないふたりの「はじめてづくし」がわたしは大好きで、いまでも日中にシャンパンを飲んだりすると叫びたくなる。
「ねえ、それでいいことおもいついた!
きょうは一日、したことないことしましょうよ、かわりばんこに」

麗しい。
マンシーニの音楽に負けず劣らず、池田昌子による吹替の声の上品さかわいらしさは耳福である。
実は、オードリー以上にオードリーらしい声とすら思っている。
たとえば『ローマの休日』のラストシーン(「ローマです。なんといってもローマです」)は、オードリーも名演だけれど、池田昌子の名演でもある。

池田昌子は、イメージを壊したくないからと決して「顔出し」をしない、潔いプロの声優だ。
それでいて会う人びとに清冽な印象を与えている。
池田昌子のように話そう、とおもいながら、混雑していないくせに待たされる銀行窓口にイライラした。
呼び出しまでが遅い。行員の動きがいちいち遅い。
おそらくパートなのだろう、案内係の女性のほうがよほどテキパキしている。

マンシーニを聴きながらイライラ。
池田昌子のマネしながらイライラ。

「わたし、待つのってきらいじゃないの」
くらい、言ってみたいものだ。

 

 

Breakfast At Tiffany's: Music From The Motion Picture ScoreBreakfast At Tiffany’s: Music From The Motion Picture Score

 

 

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