リーディングシング『F ショパンとリスト』終演から2週間。先日「音楽」については解説したので、「物語」誕生の背景についても少しだけお話したい。
ふたりの「F」
前述のとおり、本作は「リストがショパンに捧げたラブソング」を知ったことから生まれた。
タイトルを「F」としたのは、もちろんリストが著した『F. CHOPIN』が念頭にあったからだ。新訳『フレデリック・ショパン その情熱と悲哀』(八隈裕樹訳、彩流社)を手にした方は、ぜひ15 ページの図像をご覧いただきたい。1852年刊行の原書の表紙には、タイトル「F. CHOPIN」の下に小さく「PAR(~を通した)」とあり、それより少し大きなフォントで「F. LISZT」と添えてある。そんなデザインにすら、リストの「俺たち(F)はずっと一緒だ」という強い一念を感じないだろうか。
執筆をスタートした2020年秋の時点で、この名著は英語版の電子書籍と、絶版した戦中の和訳でしか読めなかった。悉皆調査も兼ねて、国会図書館に通うことから取材を始めた。
『F. CHOPIN』を通読して驚いたのは、それが単純な回顧録ではないことだった。当時の社会情勢(とりわけポーランド問題)とショパンの関係性、そこから生まれた音楽を、同業者ならではの分析力と博覧強記で書き綴っている。リスト、やばい。ほとばしる愛が想像以上にやばい。おそらく過去にも未来にも、この人以上にショパンを愛する人はいないと思った。
もともとリストに肩入れしていたのもあって、「外向型イノベーターだが、本性は孤独。本とショパンを愛する」という彼のキャラクターは揺らがなかった。『F. CHOPIN』に至る物語なのだから、語り手もリストでよいだろう。1841年、ショパンの貴重な単独公演についてリストが執筆したRevue et GAZETTE MUSICALE de Parisの記事を発見すると、「その男の名は、ショパン」につづくプロローグが一気に完成した。
しかし、肝心のショパンのキャラクターが決まらなかった。ショパンは、自分からあまりに遠かった。ショパンの「悲しみ(ZAL)」を理解したくて、ポーランドのクリスマス講座に通った。折よくショパン・コンクールに挑んでいたピアニスト、角野隼斗さんに会うことができ、ショパンとリストの楽譜の違いについても教えてもらった。分厚い書簡集も読みはじめた。遠いショパンの素顔に少しずつ近づいていくのは楽しかったが、焦りもあった。
バディものである以上、情熱家のリスト(赤のイメージ)とは真逆のクールな印象(青のイメージ)がほしい。しかし、作曲以外の「行動」に乏しい彼をどうすれば舞台映えのする、男も惚れる男として描けるのだろう?
そんなときに出会ったのが、伊東健人さんの朗読劇だった。シャーロック・ホームズを演じる彼の皮肉気な声、堂々たる身のこなし、ヴァイオリンを弾くポージング、そしてふいによぎる孤独を目にしたとき、頭のなかにはっきりと「ショパン」が像を結んだ。「この人で、クールで激情を秘めた、今まで見たことのないショパンを作りたい」と強く思ったのである。
史実と創作
そうして生まれたのが、第1場の「出会い」だった。『F ショパンとリスト』の物語は、おおよそ次のような時系列になっている。
プロローグ(1841)
第1場 出会い(1832) 鮮烈な出会い。互いの欠落を埋めるピースを見つけるふたり
第2場 再会 2月、ショパンのパリ・デビュー公演。一気に打ち解ける
第3場 献呈(1833) 蜜月。「おまえが弾く俺の曲が、 俺は一番好きだ」
第4場 「誰よりも」 リストの復活。躍進するふたりは、未来を誓う
第5場 記憶(1835) ショパンの悪夢
第6場 海辺にて 青春の終わり。5月、リストはパリを離れ(巡礼の年)、ふたりの距離は少しずつ広がっていく
第7場 不協和音(1839) 再会したショパンと言い争い、疑念を抱くリスト。追いつめられたショパン
第8場 訣別 やがて決定的な事件によって、ふたりは訣別する
第9場 和解(1849) 再会。ショパンは音楽を託し、リストは彼の死後、その生涯と音楽を書き記す
エピローグ「自由の音へ」
実在の書簡や日記、公的記録の「空白を描く」という手法でプロットを膨らませたが、第5場以降の展開はほぼ創作である。
とはいえ荒唐無稽にはしたくない。たとえば1839年、ちょうど二人が一緒にパリにいたタイミングを見つけ出し、御前演奏の記録と照合し、決定的な別れ話をさせるためには、ものすごく綿密な年表を作らねばならなかった。ショパンはパリ市内でも引越しを繰り返していたので、終始Google mapとにらめっこで街のイメージも膨らませた。
そして1849年の秋、ショパンの死の直前に、ふたりを再会させることにした。プロローグ(1841年)の公演評の続きを読んでいるショパンのもとに、ピアニストとしての第一線を退き、指揮者として音楽界の帝王への道を歩むリストが現れる。物語を通して最も描きたかった「音楽は生き続ける」というテーマを、この架空の「和解」によって強調したかった。リストがそのように考え、ショパンの音楽を守ろうとしたのは事実だからだ。
登場人物(補足)
ここで、二人劇に名前で登場する人々についてもご紹介しよう。
ミツキエヴィチ……ポーランドの詩人。パリのポーランド芸術協会の中心人物の一人。 この物語では「ポーランド」の象徴として、リストに疑念(ミスリード)を与える。おそらくリストに「俺のほうが親しい」とマウントをとっているイメージ。(リスト役の石谷さんは「またミツキエヴィチ!」と本当にイラついていた。)
ポトツカ夫人……ポーランドの伯爵夫人。ショパンより3歳上の生徒兼ミューズの一人。亡命ポーランド人社会の中心的存在だった。
マリー・ダグー……フランスの伯爵夫人。リストと恋におち、大スキャンダルののち出奔、3人の子の母となる。1844年に離別後、作家ダニエル・ステルンとして活躍する。次女コジマはのちのワーグナー夫人に。
ジョルジュ・サンド……フランスの作家。男装の麗人。リストに紹介され、ショパンと同棲をつづけるが、1847年に離別。
パーレン伯爵……駐仏ロシア大使(1835~)。ロシア帝国将軍で、十一月蜂起の指揮官。この物語では「秘密」の象徴として、ショパンを苦しめる。
そのほか、貴族や音楽家の名がたびたび登場するが、ほとんどがショパンやリストと関わりのあった実在の人物である。一方、物語の中心にいるふたりのポーランド人は、史実を基にした架空の人物だ。
ユゼフ……ショパンの戦友。ワルシャワ音楽院の先輩だったが、ある事情からショパンの背負う「十字架」に。「ショパンの過去」の象徴として、二人を苦しめる。有名なショパンの幼馴染、ティトゥスの役割も担っている。
ヤン……ショパンに助けられる亡命ポーランド人の少年。執筆時に聴いていたエチュードの演奏者、ヤン・リシエツキから命名した。
心に秘めた弾薬
最後に『ショパン全書簡』(関口時正 訳、岩波書店)の中で出会い、決定的にこの物語を形づくった、ショパンの言葉を紹介したい。
弾薬は心に秘めて、病者を装え。ただ運搬物の中身は、誰にも知られるな。
ショパンが、故郷の友人にあてて書いた手紙の一文だ。これを読んだときは雷に打たれたようになり、ああ、ショパンもまたわたしと同じなのだと、はじめて思えた。
そして、コロナ禍で味わった感情をすべてぶつけようと決意した。音楽が不要不急と名指しされ、大切な誇りを失っていくような無力感。怒りがうずまく世界への戸惑いと、痛切な孤独。「声を上げられる人だけが闘っているわけじゃない。人には人の闘い方がある」と言われて安堵し、泣いたこと。創作の歓び、苦しみ。愛とはその人の過去を赦すこと、未来を信じること、そういう自分の信条も、すべてつめ込んだ。
その意味で本作は、たくさんの気づきを与えられたこの2年の、想いそのものだった。
企画・監修の大谷啓史さんがいなければ、この物語は生まれていない。彼は話相手からリサーチャーの役割までを超人的情熱でこなし、延期が続いた舞台を見事実現してくれた。半年にわたる脚本会議で助言をいただいた演出家の保科百合子さんには、舞台脚本のなんたるかを一から教えてもらった。そしてはじめての現場を導いてくれたK氏の存在が、どれほど心強かったか。
キーヴィジュアルの制作でお世話になったRE°さんと宣伝のおふたりは、まだ骨格しかない物語の最初の理解者だった。K氏を通して再会した音楽業界の恩人に「信じた道を歩いてきたのね」と言われたのも忘れられない。
稽古がはじまると、各分野のプロフェッショナルたちの手で物語が立ちあがっていくことに、震え続ける毎日だった。緊迫する現場でふいに鳴り響いた松村湧太さんのノクターンは、音楽への愛を再確認させてくれた。
音楽や文献を血肉とし、ディスカッションをしながら役を深め、ショパンとリストが憑依したかのような熱演を見せてくれた伊東健人さんと石谷春貴さんには、まさに感謝してもしつくせない。
そして、ダブルアンコールの喝采で作品を愛してくれた皆様。誰が欠けても、この物語はありえなかった。
本当にありがとうございました。次なる一歩を前に、この手記を捧げます。
2021年12月 高野麻衣