エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン《フランス王妃 マリー・アントワネット》1785年 油彩、カンヴァス 276×193cm ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
フランス史上、最も神話的な人物のひとりである王妃マリー・アントワネット。
その波乱に満ちた生涯をたどる「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展」が25日、東京・六本木の森アーツセンターギャラリーで開幕する。
「ロココ」や「プリンセス」の象徴であるアントワネットをテーマにした展覧会は、フランスはもとより日本でも頻繁に開催されている。しかし本展は、「ヴェルサイユ宮殿の企画監修」としては日本初、世界的にも「過去3回しかないほど大規模なものであり、独特の性格を持った展覧会」だという。
記者たちを前に、ヴェルサイユ宮殿美術館主任学芸員のベルトラン・ロンドーさんらは語った。
「オーストリア皇女だった少女時代から、華やかな宮廷生活。王妃の生涯をたどる過程で、同時代を生きたさまざまな人物が登場します。そして悲劇的な最期の証となる遺品の数々。それは、まるで聖遺物のようです。
王妃が激動の時代をどのように生き、なにを思ったのか――彼女の37年の人生を、くまなくお見せします」
この言葉には、まったく嘘がなかった。
私たちがこの王妃について知っているつもりだった生涯のディテールを、「本物」の力で訴えかけ、発見を与えてくれる絵画や愛用品、遺品の数およそ200点。それらが与えてくれたのは、「体感」という言葉ではあまり軽すぎる、胸を打つほどの「共鳴」だった。
今回はそのほんの一部を、展覧会の構成にそってご紹介していきたい。
物語は、ウィーンからはじまる。
§第1章§
ウィーンからヴェルサイユへ、皇女から王太子妃へ
入場たとたんに包まれる空間は、ウィーンらしい赤に包まれている。
生まれたばかりのアントワネットとその家族、女帝マリア・テレジアやエカテリーナ、フリードリヒ大王といったお歴々の顔も。ハイドンの交響曲第85番「王妃」とともに綴られる、王妃の生涯のプロローグである*1。
マリー・アントワネット(Marie Antoinette, 1755−1793)は、ハプスブルク家の皇帝フランツ1世と、オーストリア大公マリア=テレジアの15番目の子として生まれた。
マルティン・ファン・マイテンス(子)《1755年の皇帝一家の肖像》 (部分)
これはマリー・アントワネットを描いた最初の絵画のひとつで、皇帝夫妻は12人の子どもたちとポーズをとっている。生まれたばかりの皇女は、左手、椅子の後方の揺り籠の中だ。
シェーンブルン宮殿で幼年時代を過ごしたこの末っ子の皇女は、歌やダンスを好み、自由な家風のなかで才能を育てた。
フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット》
アントワネットの最初の音楽教師グルックは、当時もっとも優れた人気音楽家のひとりだった。のちに、フランス王妃となったアントワネットの招聘で、ヴェルサイユ宮殿のオペラ座でも彼の作品が上演されている。
Christoph Willibald Gluck – Dance of the Blessed Spirtis (from ‘Orpheus and Eurydice’)
さて、長きにわたる交渉の末、アントワネットとルイ15世の孫の王太子との「縁談」がまとまった。皇女は王太子妃として、フランスへ嫁ぐことに。ハプスブルク家とフランス・ブルボン家との絆を強固にするための政略結婚だった。
孫の王太子ことルイ・オーギュスト(のちのルイ16世 Louis XVI, 1754-1793)は、アントワネットより1歳年上。
ルイ・ミシェル・ヴァンロー《ベリー公ルイ・オーギュスト、後のルイ16世》
これまで短身肥満でぼんやりしたイメージが強かった彼が、実際は192センチと大柄で、英語、ドイツ語など多言語を習得し、哲学や歴史、物理にまで精通した博識な人物だった*2。
1770年4月2日、14歳のマリー・アントワネットはウィーン宮廷と家族に永遠の別れを告げた。マリア・テレジアは長い手紙を娘に託し、そこに書き記された教訓を毎月読み返すよう、彼女に言い聞かせたという。
§第2章§
王太子の結婚
1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王家の礼拝堂で結婚式が挙げられた。
9日間つづいたという祝宴が行われたのは、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって建てられたヴェルサイユ宮殿の新しいオペラ劇場。その落成式で設えられた、セーヴル製のテーブル飾りや緞帳も出品されている。
王太子妃の美しい容姿、面長で均整のとれた顔、つんとした鷲鼻、昂然と上げた頭、生き生きとした青い瞳、ちょっと偉そうなおちょぼ口、「百合の白と薔薇のピンクが混ざり合ったような」色白の肌、銀白がかったブロンドの髪――それらは人々の賛嘆の的となった。
そして芸術家たちは絵画や彫刻、版画などを通して、初々しい花嫁のようすを国中に広めた。
フランソワ=ユベール・ドルエの原画に基づく《王太子妃マリー・アントワネット》
フランスに到着して間もない、あどけなさの残る王太子妃。
今回の展覧会に合わせ、日仏共同制作の漫画『マリー・アントワネット』(講談社)を描きおろした惣領冬実による作画にも似た、優しい面差しだ*3。惣領先生は語る。
「当時のヴェルサイユのしきたりを調べると、ルイ14世が定めた分刻みのスケジュールを健気にこなすマリー・アトワネットの素顔が浮かび上がってきます。
朝の儀式で、彼女は人前で裸にされ着替えていたとよく言われますが、実際はフランス王太子妃である彼女の身分ではあり得ないそうです。奥の間で準備をし(さながら楽屋からステージに上がるかのように)肌着を着用した形で王家の親族と側近たちの前に現れました。(後略)
健気に、そして無邪気にフランス宮廷に順応しようとしたアントワネットだったが、生来の活発さと飽きっぽさはいかんともしがたい。
なにしろ14歳だったのだ。若き王太子妃はフランス宮廷でのエチケットや礼節、読書のような堅苦しい一切のことと苦闘した。そしてしだいに馬に乗ったり、狩りをしたり、舞踏会や冬のそり競争を楽しんだりといった、気晴らしをもとめるようになっていったのだった。
《王太子とマリー・アントワネットの結婚記念の扇》*4
§第3章§
即位――王妃マリー・アントワネット
1775年5月10日、ルイ15世が崩御。6月11日には、ルイ16世の戴冠式がランス大聖堂で挙行された。国王は20歳、王妃マリー・アントワネットは19歳だった。
右は王妃御用達の画家ヴィジェ・ル・ブランによる初期の作品。王妃はダチョウの羽を乗せた髪飾りのプーフを被り、白いサテンのリボの豪奢な宮廷服をまとっている。
展覧会には、戴冠式の模様を詳細に描き出した、版画家のジャン=ミシェル・モロー(弟)のスケッチも出品されている。13世紀に建てられたゴシックの大聖堂は戴冠式のために全面的に装飾され、ルイ16世の治世下において最も贅を尽くした行事であったと伝えられている。
ルイ16世の王としての最初の言葉は、このような祈りだったという。
「神よ守り給え、このように若くして国を治める私たちを!」
§第4章§
マリー・アントワネットと子どもたち
4年後の1778年、 マリー・アントワネットははじめての出産を経験する。誕生したのはプリンセスで、偉大な祖母の名をとってマリー・テレーズと名付けられた。国民は王太子の誕生を期待していたが、それでも王妃への敬愛を表明した。
そして1781年、待望の王太子誕生。つづいて1785年にはノルマンディ公ルイ・シャルルが誕生。マリー・アントワネットの地位は、ようやく磐石なものとなったのである。
セーブル磁器製作所《窪みのある蓋付きカップ》
写真は、世継ぎの誕生を祝うべく、王太子のエンブレムで飾られた記念のカップ。中央に描かれているのはイルカだ。イルカを意味する「ドーファン(dauphin)」は、ドーフィネ地方を所領とする王太子の呼称でもあった。
§第5章§
ファッションの女王としてのマリー・アントワネット
1770年の輿入れ以来、マリー・アントワネットは、パリの華やかなファッションの虜だった。デザイナー、ローズ・ベルタンは、王妃を魅了するモード商人として活躍することになった。
人々は王妃の「着道楽」を非難したし、母后マリア・テレジアは娘を厳しく叱責したが、それでもアントワネットはファッションへの探求をやめなかった。
写真奥に見えるのは、本展のメイン・ヴィジュアルにもなったヴィジェ・ル・ブランによる《フランス王妃 マリー・アントワネット》。白いサテン地のパニエ付きドレス、百合の花の飾りがついたトレーン(引き裾)、薄布のヴェールで飾られた髪などの細部から、ル・ブランが国王蒐集室の模写画家と協同制作したことがわかっている。
手前は《ルダンゴ・ドレスを着たマリー・アントワネット》(作者不詳)。一種のファッション・プレート(見本)のようなもので、言い伝えによればアクセル・フォン・フェルセンが妹のソフィーに「王妃の散策時の装い」として送ったものだという。
ともすれば「ファッション・ヴィクティム」としての愚かさが強調されがちなマリー・アントワネットだが、じつは儀礼的に必要な場合にしか正装をしなかった。彼女にとってファッションはセルフ・ブランディングの一種であり、「美しくあることがいかに周囲を幸福にするか」を自覚していたのだろう。
私生活では極端にシンプルなデザインを好み、白いモスリン地のゴールドレスはその典型だった。1783年にル・ブランはゴールドレス姿の王妃を描いたが(後述)、これが公的肖像であったこともあり、サロン出品時は大不評となった。
派手なら非難、「こなれ感」も不評ーー品格と威厳を求められる公的立場と私的趣味とのあいだで、王妃の心はつねに揺れ動いていた。
§第6章§
王妃に仕えた家具調度品作家たち
ファッションを愛する人がやがて行きつくのが、インテリア道だとも言われる。
マリー・アントワネットも多聞にもれず、ヴェルサイユをはじめとする宮殿の装飾に執着した。一説によると、「ヴェルサイユ宮殿をいまの形にしたのは、太陽王とアントワネットだった」。
王妃が好んだのは明るく陽気な装飾で、夢見たのは花に囲まれた生活だった。彼女は壁布やカーテン、ベッドカバーはもちろん、磁器や七宝細工にまで花柄をオーダーし、飾り棚に並べて楽しんでいたという。
写真は、オリヴィエ・デファルジュの原画に基づいてプレル社が製作した《王妃の寝室の夏用の壁布の布と縁飾り》。シルクタフタの地に、色とりどりの花の大きなブーケとライラック、中央には孔雀の羽根とパンジーと薔薇の花冠が描かれている。
天蓋からリボンで吊り下げ、こんなふうに使用された(映画『マリー・アントワネット』より)。
こちらは手前が《鷲の頭をあしらった枝付き燭台》、奥が《寝台の上掛け》。
上掛けには薔薇と勿忘草、リラなどの花を編んだ花輪のなかに、ルイとアントワネットの頭文字を合わせたLLMAがデザインされている。
アントワネットは当時流行していたトルコ趣味(テュルクリー)と中国趣味(シノワズリー)に染まりつつ、同時にインテリアもファッションも「古代賛美」――つまり次世代の新古典主義をも先取りしていた。
ただ、装飾モティーフとして花と真珠を好んだという点だけは、生涯変わることがなかった。
§第7章§
再建された王妃のプチ・アパルトマン
マリー・アントワネットは娘のマリー・テレーズの教育を見守るために、彼女をヴェルサイユ宮殿中央棟1階にある広大なアパルトマンに住まわせることにした。そして自分のために、大理石の中庭に面した部屋を確保した。それは浴室、図書室、居室の3室からなる「プチ・アパルトマン」だった。
19世紀に入ってヴェルサイユ歴史美術館が創設されると、これらの部屋は解体されてしまったが、近年、浴室と居室が復元された。
本展では、そんな「王妃の居室」と「王妃の浴室」が、実際に使われていた家具や同時代の浴槽とともに原寸大で再現された。
ユベール・ド・ジバンシィの提案により、ベルギー人アーティスト、イザベル・ド・ボルシュグラーヴが再現した浴室。化粧係と部屋係に付き添われ、化粧台の前に座る王妃にも会える。
ヴェルサイユに入浴の習慣を持ち込んだのもアントワネットだった。浴槽は銅製で、金属が肌に触れることを避けるため麻のシーツで覆って使用したそうだ。
また、王妃の秘書だったカンパン夫人によって作られた「王妃の図書館」は、東京駅の3Dプロジェクションマッピングで知られるNAKEDが、パリの国立古文書館に保管されている設計図などをもとにバーチャルリアリティで表現している。
モロッコ革の装丁に包まれた本がずらりと並べられた図書館で、王妃が読書をすることはめったになかったという。
しかし、その静かな空間で彼女は窓の外を眺めながら、新曲に思いを馳せたりしていたのかもしれない――そんな物語を思わず夢想してしまった。
Marie Antoinette of Austria: C’est mon ami [romance] for voice and harp (1773 c.) / I. Poulenard
ドラマティックな展覧会の真ん中で、庭園と王妃自らが作曲し愛唱した「それは私の恋人」のやさしい音色に心が安らいだとき、彼女と気持ちを分かちあったような気がしてうれしかった。
後編は、プチ・トリアノンでの暮らしから激動の最期まで。
- アーティスト: オムニバス(クラシック),ダニエルズ(デイヴィッド),マルティーニ,ラモー,モーツァルト,オグデン(クレイグ)
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
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