30年近くもモーツァルトに恋していると、もはや彼の音楽は母の鼓動のようなもので、問答無用に懐かしい。
実際、今回のオペラ『イドメネオ』を劇場で観るのははじめてだったのだが、次々に襲いくる美旋律と懐かしさの嵐に、涙が止まらなくなってしまった(5/8 東劇)。
『イドメネオ』は、ギリシャ神話を基にしたオペラ・セリアだ。
モーツァルトはオペラ・ブッファ(コメディ)と思いこんでいる人も多いと思うが、彼だってセリア(シリアス)を書く。『イドメネオ』はとくに、24歳の若きモーツァルトの野心作。その意気込みが随所から感じられる、凛とした仕上がりだ。
トロイア戦争終結後のクレタ島。戦争に出陣した国王イドメネオは、帰路の海で嵐に巻き込まれ、命と引き換えに、上陸して初めて出会った人間を生贄に捧げると海神ネプチューンに約束する。クレタ島に帰り着いたイドメネオが出会ったのは、なんと息子のイダマンテだった。
イドメネオはイダマンテを亡命させようとするが、イドメネオの裏切りに激怒した海神は怪物を送り込む。次々と襲う天災に、窮地に立たされたイドメネオは…。
冒頭から、悲運の王子イダマンテと、敗戦国トロイアの王女イリア、そして戦勝国ギリシャの王女エレットラ(エレクトラ)の三角関係を軸に物語は進むのだが、まもなくモーツァルトが描きたかったのは「父と息子」だとわかってくる。
クライマックスに向かって生き生きと熱を帯びていく音楽が、なにより雄弁に教えてくれるのだ。
苦悩する国王イドメネオ(マシュー・ポレンザーニ/左)と、父王のために命を投げ出そうとする王子イダマンテ(アリス・クート)。大合唱団を伴って、音楽はときに『フィガロの結婚』の二重唱のように、『ドン・ジョヴァンニ』のコントルダンスのように、そして『レクイエム』のように荘厳に響く。
王子の高潔で英雄的な振る舞いには、若きモーツァルトの夢と理想を見るようで、胸が締め付けられた。後年の『ドン・ジョヴァンニ』の結末を知るからこそ、なおさらだ。
このオペラを作曲した1780年頃、モーツァルトはパリでの夢破れ、故郷ザルツブルクで鬱屈していた。そんな折、ミュンヘンの選帝侯から依頼を受けたのがこの『イドメネオ』。彼は「父と自分のよう」と共感し、作曲に熱中したという。
1781年1月、『イドメネオ』上演後もモーツァルトはミュンヘンに留まった。3月に上司であるコロレド大司教の命でウィーンに赴くが、5月に決裂、そのままザルツブルクに帰らずウィーンに定住することになる。ある意味、転機の作品だった。
モーツァルト好きでも知られるMETのリヴィング・レジェンド、巨匠ジェイムズ・レヴァインは、この作品が大好きなのだという。1982年のMET初演で指揮したのも、このレヴァインだった。
今回1時間強と長くとられた2つの休憩時間のなかで、われわれ「METライブビューイング」の観客は、恒例の幕間インタビューのほかに、1988年に撮影されたレヴァインのドキュメンタリーを観ることができた。当時のスター歌手、ジェシー・ノーマンやキャスリーン・バトルとのリハーサルに密着した貴重な映像なのだが、なによりも印象的だったのが、歌手やオーケストラを愛し、寄り添い、みんなから愛されるレヴァインの姿だ。ピアノを弾きながら、彼は何度も尋ねる。
「この音のあと、こうしたらどう? 歌いにくくはないかな?」
心地よさそうに歌っていたジェシー・ノーマンは、泣き出しそうな声でこう叫ぶ。
「ああ、あなたがいつもこのくらいそばにいてくれたらいいのに!」
するとレヴァインは、微笑んで答えるのだ。
「大丈夫。僕にはどこからでも君のことがわかるし、どう歌っても合わせられるよ」
瞬間、ジェシーとともに、私の涙腺まで崩壊してしまった。こんなふうに言ってくれる人を、愛さずにいられるだろうか。
これまで何回も、歌手たちが「レヴァインの指揮で歌えるなんて最高だ」というのを聞いてきた。その音楽を聴いて、納得したつもりになっていたけれど、こうして彼の「人間力」のようなものを目の当たりにして、音楽のひみつまでわかった気がした。
レヴァインが紡ぐモーツァルトはいつも、その日生まれたばかりのように自然で、清廉で、愛に満ちている。わたしはそこに、モーツァルト自信と同様の希望を見出していたのだと思う。*1
長年病と闘ってきたレヴァインは、今季をもってMET音楽監督を引退。ヤニック・ネゼ=セガンが次期音楽監督として取り組み、2020年より正式に就任予定だ。
「それでもできうる限り、レヴァインの指揮を体験したいね」
同席した小橋めぐみさんと私は、帰り道にそんな話をした。それほどに、愛にあふれた音楽だった。
ジャン=ピエール・ポネルによる、伝統的なのに新鮮な演出もすばらしかった。
海神ネプチューンの顔が印象的な、モノトーンに近い、ギリシャの野外劇場のようなセット。モーツァルトが生きた18世紀の風俗画から抜け出してきたような合唱団。王侯貴族が纏うシックな菫色。
あまりにセンスがいいので「リプロダクションかな」と思っていたけれど、当時から変わっていないらしい。1982年当時、どれだけ先端をいく演出だったのだろう、と舌を巻いた(下記DVD参照)。
ふたりのプリンセスについても触れておきたい。
まずは、バレエ出身のめぐみさんに「白鳥に対する黒鳥ね」と言わしめたエレットラ役エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー。まったく、絵に描いたような黒鳥ぶり!
2013-14シーズンの『マリア・ストゥアルダ』エリザベス女王役でも感じたことだが、一見すると野心の塊、権威第一主義のようだが、内面に繊細さをあわせもつ「高貴なる女」を演じさせたら右に出る者はいない。
恋愛というキャットファイトには敗けても、人生という勝負で勝者となったエリザベス。同じように、『イドメネオ』ラストの狂乱の場の主役は――もしかしたらカーテンコールをもっとも浴びたのも、彼女だったかも。エレクトラという人物、その背景をも知りたくなる、そんな魅力をもったオペラ女優だ。
そして、恋愛勝ち組のイリヤ姫を演じたのが、28歳の新星ネイディーン・シエラ。
1988年フロリダ生まれ。彼女の生年は、前述の名演出家ポネルの没年でもある。
幕間のインタビューの中で彼女が「(生まれる前の)古きよきMETの世界にいられて幸せ!」と話すのを、「その“古きよき”時代を僕は見てたよ」「彼女の年齢知ってる?」といじるMCのオーウェンズやヒーヴァーがかわいかった。「えへ、ベイビーでごめんなさい」と笑うシエラ。天真爛漫で、ちょっぴり腹黒さも見え隠れする私の“タイプ”だ(賛辞)。
もちろん歌唱も舞台姿も折り紙付き。METの次はヴェネツィア・フェリーチェ歌劇場での『ランメルモールのルチア』が控えている売れっ子だが、なによりキャラクターがモーツァルト・オペラのヒロインにぴったりで、今後が楽しみだ。さっそくinstagramをフォローしてしまった。
若い世代の歌手はセルフ・プロデュースも上手なので、追いかけていて楽しい!
最後の写真は、今回の『イドメネオ』幕間のひとこま。
みんな、すごくいい表情をしている。やっぱり、こういうスターを次々と生み出し、堂々と発信する、METという「場所」と「エンターテインメント」が心から好きだな、とつくづく思った。
現地ニューヨークでの2016-17シーズンは、あと5日で終幕。
日本での「METライブビューイング」は6月まで続くが、これも残すところ2作品となった。ネトレプコ主演の『エフゲニー・オネーギン』(5/20-26)、そして今季最注目作にしてルネ・フレミング最後のMET主演となる新演出『ばらの騎士』(6/10-16)は、どちらも絶対に見逃せない!
巨匠の人間愛とともに、劇場滞在気分まで味わえるモーツァルト『イドメネオ』は、全国の映画館で5/12(金)まで。東京・東銀座の東劇では19(金)まで特別上映される。
Come and join them!!!
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*1:地方の海沿いの街でモーツァルトに恋した少女が、どのようにして彼の音楽に近づいたのか、想像してほしい。それはほほえましい物語だ。まずは図書館で伝記を読みあさり、次にピアノ教室に通わせてもらい、時折国道沿いのモールのレコード店にわずかに置かれたクラシックのCD(おそらく当時の売れ筋の新譜)を少しずつ買ってもらう――そんななか、擦り切れるほど聴いた2枚が、レヴァインの指揮する『モーツァルト・オペラ名アリア集』と『ジェシー・ノーマン・ベスト・コレクション』(ともに現ユニバーサル)だった。彼の音楽は、私の音楽の原点でもある。