Memories & Discoveries 24/02 「パリの思い出」

私にとってパリは、何度訪れても飽きない街である。

美しいオスマン建築の街並みに、大小の美術館、ストールをゆるく巻いて足早に歩く女性たち──それらをぼんやり眺めているだけで五感が刺激され、すっと背筋が伸びる。この冬、4年ぶり訪れたこの街ではじめての一人旅を経験し、本当に生きたい場所で自由に生き、人間として成熟したいという渇望が体中にしみわたるのを感じた。

心地よい自由の裏には、緊張と不安がついてまわる。パリの人々は日本人にかなり友好的だが、もちろんそうでない人もいる。しかしそんなときも、街角でふいに出会う音楽が救ってくれた。

2月のクラシック・プレイリストは「パリの思い出」と題し、自分を見つめ直した冬の旅を回想した。悠久の歴史と未来の間をたゆたう、パリ。そこで出会った“音の記憶”をたどってみよう。

1) デュファイ:花の中の花(2/20送分)

ギヨーム・デュファイは15世紀、バロック以前のいわゆる「古楽」の時代の音楽家だ。

ローマ教皇庁や北フランスのカンブレ大聖堂で活躍した彼は、中世のあらゆる音楽技法を駆使しつつ、人間的な情感を光を当てたルネサンス音楽への方向づけをした人物として知られている。「花の中の花」は、聖書の言葉を歌詞とする無伴奏合唱曲(モテット)の1曲だ。

この曲を聴いたのはセーヌ川の左岸、カルチェ・ラタン界隈でのことだった。

サン・ジェルマン大通りとサン・ミッシェル大通りの角にあるクリュニー美術館で、10年ぶりに「貴婦人と一角獣」に再会した。日曜の朝の美術館はほとんど貸し切りで、ローマ時代の遺跡と14世紀の修道院が醸し出す濃厚な歴史の空気に、私は溺れた。パリにいることすら忘れて時間旅行に没頭し、15世紀末に織られたダマスク織のタピスリーの前で、しばらく座っていた。

金文字で掲げられた「我が唯一の望み」──その言葉の真意はいまだ不明だ。しかし私には、首飾りをはずした貴婦人が、ようやく掴んだ自由の中で恍惚としているように感じられた。

退館後、美術館の庭をそぞろ歩きながら、タピスリーを愛したジョルジュ・サンドはあの言葉をどう捉えたのだろう、と考えていた。その時ふいに、イヤフォンから聞こえるプレイリストがこの曲に変わり、目の前に陽光が差し込んだのだ。それは、かつてこの場所を訪れたかもしれない作家のサインのように感じられた。

光と影の間をさまよって見つけた、自由の光。こうしてパリは、ますます深い沼となっていく。

2) アーン:クロリスに(2/21放送分)

レオナルド・アーンは、19世紀から20世紀のパリで活躍した音楽家。

ベネズエラに生まれ、3歳でフランスに移住した彼は、11歳でパリ音楽院に入学。13歳のとき最初の歌曲を出版し、晩年にはパリ・オペラ座の監督に任命された。その作品の多くは声楽作品で、サロンでは自ら弾き語りをすることもあったという。サロンを通じて、『失われた時を求めて』の作家マルセル・プルーストや、『椿姫』などで知られる女優サラ・ベルナールらとの交流もあった。

「クロリスに」は、17世紀の天才詩人テオフィル・ド・ヴィオーの詩をもとにした美しい歌曲だ。はじめて出会ったのは、ブルターニュ地方のナントを訪れた2007年の冬のことだった。音楽祭取材中、滞在していたホテルのテレビからふいに流れた曲に釘付けになり、帰国してすぐCDを購った。

一方、この冬のパリ。新しい交通ICカード「Navigo Easy」を試したかった私は、最寄りだったOpera駅の態度の悪い係員と格闘し、ようやくそれを手に入れた。ところが、改札で何度試しても、ブザーが鳴って通れない。仕方なく別の係員に尋ねると、彼女はていねいに接触不良を詫び、料金分の切符を発行してくれた。

旅先でのアクシデントには落ち込むものだ。なんだかな、とため息をつきながら8号線のホームに向かった私の耳に、馴染みのあるこの曲の前奏が響いた。落ちついたメゾソプラノの声が、それに続く。

本当かい、クロリス 君が僕を愛しているなんて
君が想ってくれているのは知っていたけれど
たとえ王様でも 僕ほどの幸福を知るはずがない

歌っていた女性は、オペラ歌手志望だろうか。地下鉄に鳴り響く清らかな愛の歌に、先刻までの幻滅など、みごとに霧散してしまった。

3) 角野隼斗:追憶(2/22放送分)

21世紀の「ピアノの時代」において、唯一無二の存在感を放つピアニスト、角野隼斗。

東大理系出身という異色の経歴と人気YouTubeチャンネル、2021年にはショパン国際ピアノコンクールのセミファイナリストとしても大きな注目を集め、いまや各地からラブコールが絶えないスターの一人となった。2023年にはニューヨークに移住。はじめて紹介された5年前からとどまることのない挑戦と、つきぬ好奇心に、いつも驚きと勇気をもらっている。

彼の特徴は、クラシックにしっかり軸足を置きながら、ジャズやポップスとの往来を楽しむ自由なスタイルだ。ショパンやリストと同様、自ら作曲も手がけるコンポーザー・ピアニストであり、その「音」にハマると抜け出せない。

この冬のパリ旅行のハイライトの一つは、彼のパリ公演だった。出会ったのが『F ショパンとリスト』執筆時だったことで、ショパンについてたくさんの助言とインスピレーションを与えもらったという思いもある。ショパンが生きた街で、彼のショパンを味わえたらと考えたのだ。

https://spice.eplus.jp/articles/325485

10区のストラスブール・サン・ドニにあるLa Scala Parisで、情熱的なフランスの人々と彼の自由なクラシックを共有した時間は、本当に特別なものだった。その中で、なにより印象的だったのが、この「追憶」に感じた変化だった。

「追憶」は、ショパンのバラード 第2番 ヘ長調 Op.38にインスパイアされた彼のオリジナル曲。アップライトピアノのくぐもった音を、音響効果によって傍らにいるように届け、聴衆を親密な空間に引き込む。やさしく内省的で、せつないほどの安堵に包まれるこの曲に、私はこの夜はじめて「僕はここにいる」という強さを感じたのだ。

それはホールの音響のせいかもしれないし、自分自身がパリという異国にいたせいかもしれない。ここでは誰も空気を読んでくれない。やりたいことは主張するしかない。たった一週間の旅でも刺激を受けるのだから、春からニューヨークで暮らしている角野の音楽が、少なからず変化していくのは当然のように思えた。

音楽は、音楽家が生きている限り──あるいは後世の音楽家が演奏し続ける限り、変化し続けるのだ。

あたりまえの事実だが、だからこそ私は音楽を、瞬間芸術を愛するのだと痛感した。

マルセル・プルーストは言う。「真の旅路は、新たな土地を探すことではなく、新たな目で物を見ることだ」と。私たちが旅をするのは、この「新たな目」を得るためなのかもしれない。水も人も、動かなければ淀んでいく。定期的にかき混ぜることが必要なのだ。

どこまでも自由に。守りに入ったと感じたら、次の場所へ。私はそういう人が好きだし、自分自身かくありたいと願う。

 

クラシック・プレイリスト、次回の担当分は4月にオンエア予定。毎朝5時台、JFN系列38の全国FM局とradikoタイムフリーでもお聴きいただけます。

出演|Memories & Discoveries

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