1998年の夏のことだった。パリのカルナヴァレ博物館で、私はフランツ・リストに出会った。
肖像画に描かれていたのは、28歳のリストだ。すらりと伸びた長身を黒衣に包み、金茶の髪が縁取る美貌でこちらを振り向く彼は、どこか余裕げな笑みを浮かべていた。当時夢中で読んでいた、萩尾望都の漫画の登場人物のようだと思った。絶対キザなこと言って、主人公をからかってくるヤツだ。
そんな男が〈ラ・カンパネラ〉なんかを作曲し、みんなの前でド派手に披露したのだ。そんなの、好きになるに決まってる。
憤慨しながら本を読み漁った。生き方も言葉も、大好きになった。好敵手ショパンと一歳違いの親友だったこと――ショパンがリストに言った「おまえが弾く俺の曲が一番好きだ」という言葉のモデルにも、そのとき出会った。奇跡みたいな天才がふたりいて、互いを認め合い、やがて訣別する。神話のようだった。より高みを求めてあがくリストが好きすぎて、ショパンはなぜ祖国のために動かないんだろう、とじれったく思うことさえあった。
10数年後、私は雑誌記者になった。フランスから来日したハープ奏者の取材をしていると、彼はコンサートで「ショパンの死の翌日、リストはかつての友への思いを音楽に託した。これはリストのラブソングなんだと思う」と前置きし、〈コンソレーション 第3番〉を奏でた。1849年10月、ショパンが39歳で死去した年に、リストが作曲した曲だ。
ハープの弦がかき鳴らされると、リストの慈愛に満ちた悲しみが、まるでモノクロームがカラーに変わるようにあざやかに浮かび上がった。そしてはじめて思った。
「ショパンには何か、動けない事情があったんじゃないか。もうひとりの天才に、これほど愛された人なのだから」
そのとき、私の中でふたりの「F」の物語が動き出したのだった。
『F ショパンとリスト』は、実在の書簡や日記、公的記録の「空白を描く」という手法でプロットを膨らませた歴史創作である。「共同制作」したヒラーへの手紙も合鍵も物真似も、「ショパンはひとりじめするように愛してくれる」もすべて史実の断片だ。
「F」というタイトルをつけたのは、そもそもリストが著した評伝『F. CHOPIN』が念頭にあったからだ。
作中では『F.リストによるF.ショパン』として登場するこの本の初版本には、金の箔押のタイトル「F. CHOPIN」の下に、わずかに小さく「F. LISZT」と著者名が並べてある。そんなレイアウトにすら、リストの「俺たちはずっと一緒だ」という強い一念を感じてしまう。
なにしろ、『F. CHOPIN』は尋常じゃあない。
脚本執筆をスタートした2020年秋、国会図書館でその本(当時唯一の和訳だった戦前の絶版本だ)を通読して驚いたのは、それが単純な回顧録ではないことだった。1830~40年代の革命に満ちた社会情勢──とりわけポーランド問題とショパンの関係性、そこから生まれた音楽を、同業者ならではの分析力と博覧強記で書き綴っている。
リスト、やばい。ほとばしる愛が想像以上にやばい。おそらく過去にも未来にも、この人以上にショパンを愛する人はいないだろう。
しかし、肝心のショパンは、自分からあまりに遠かった。ショパンの「悲しみ(ZAL)」を理解したくて、ポーランドのクリスマス講座に通ったり、折よくショパン・コンクールに挑んでいた角野隼斗さんにお話を伺ったりした。分厚い書簡集を読んでいると、遠いショパンの素顔に少しずつ近づいていくようで楽しかった。
なにより楽譜を読み、音楽を聴き続けることで、ショパンが戦う人であることがわかった。耳に心地いい曲が多いから誤解されがちだが、彼はリスト同様に限界まで挑んで、新しい音楽を切り拓こうとした人なのだ。そう気づくたびに、「ピアノの詩人」というステレオタイプをいつのまにか内在化していた自分を恥じた。
私の物語は、そういう固定観念を覆すようなものにしたいと思った。
ショパンは聖人で、リストは俗物。二人の訣別は女性問題。マリーやジョルジュは天才を誑かした悪女──そういう、200年続くイメージ戦略に抗うためには、大胆な演出が必要だと思った。ショパンの一人称を「僕」でなく「俺」にしたのは、その象徴だ。ロシアの秘密警察のブラックリストに載っていた彼の勇ましさ、ポーランド語の手紙から伝わる等身大の青年らしさを、わかりやすく伝えたかった。
とはいえ、荒唐無稽にはしたくない。だからディテールは史実にこだわった。
たとえば1839年、ちょうど二人が一緒にパリにいたタイミングを見つけ出し、決定的な別れ話をさせるためには、ものすごく綿密な年表を作らねばならなかった。ショパンはパリ市内でも引越しを繰り返していたので、終始Google mapとにらめっこだった。
そして1849年秋、ショパンの死の直前に、ふたりを再会させることにした。
プロローグに登場した、1841年の公演評を読んでいるショパンのもとに、ピアニストとして第一線を退き、指揮者として帝王への道を歩むリストが現れる。物語を通して最も描きたかった「音楽は生き続ける」というテーマを、この「架空の和解」によって強調したかった。リストがそのように考え、ショパンの音楽を守ろうとしたのは事実だからだ。
最後に、ふたりの「F」をめぐる登場人物についてもご紹介しよう。
マリー・ダグー。彼女はフランスの伯爵夫人で文筆を志していたが、リストと恋におち、妊娠を機に大スキャンダルとともに出奔。「巡礼の年」をともにし、3人の子の母となった。しかしクリエイター同士の関係は難しく、1844年に離別。その後作家ダニエル・ステルンとして活躍し、独身を貫いた。彼女については、リストが「深い孤独の中で」と彫った指輪を贈ったエピソード、晩年の詩のすばらしさ、次女コジマがやはり不倫してワーグナー夫人になりリストが激怒したことなど、話題は尽きない。
ジョルジュ・サンドは、ご存知のとおり「男装の麗人」として知られたフランスの作家だ。リストに紹介され、ショパンと同棲をつづけたが、1847年に離別している。ショパンを知れば知るほど、この人のことも知りたくなった。
小説化にあたって、編集者Sさんに「女性たちのサイドストーリーも読めたら嬉しいです」と言っていただき、「幕間」の二編を追加できたのは嬉しかった。この女性ふたり──MとJの関係性も気になるので、いつか『オーロール』の続編を書けたらと考えている。
ポーランド人、ヤンとユゼフは、私の創作である。噓が下手なヤンは、執筆時に聴いていたエチュードの演奏者、ヤン・リシエツキから命名。ユゼフには、有名なショパンの幼馴染、ティトゥスの面影を重ねた。
弾薬は心に秘めて、病者を装え。ただ運搬物の中身は、誰にも知られるな。
ショパンが友人にあてて書いた手紙の一節を読んだとき、「ショパンもまた私と同じなのだ」と雷に打たれたのを覚えている。
この2年あまり、音楽が不要不急と名指しされ、誇りを失っていくような無力感を味わった。「声を上げられる人だけが闘っているわけじゃない。人には人の闘い方がある」と言われて安堵し、泣いたこともある。
そういう感情を、すべてぶつけようと決意した。愛とはその人の過去を赦し、未来を信じること──そういう自分の信条も、すべてつめ込んだ。そうして完成した物語を愛していただけて、こうして本になって、もう一度舞台でお目にかかれたことを考えると、感謝で胸がいっぱいになる。
本当に本当に、ありがとうございます。
音楽も舞台もきっと、消えることはない。この物語が、希望の影を作る、ささやかな灯りになれば幸いだ。
(初出:2022年7月9日 リーディングシング「F ショパンとリスト」会場限定ペーパー)