本日スタートの「ボルドー展」内覧会へ。
2007年、ガロンヌ河岸の歴史地区を中心とする街の一帯が世界遺産に登録された「月の港ボルドー」。「どうして月の港?」「世界一エレガントな街ってなぜ?」という疑問に応えてくれる、説得力のある2万5千年の旅だった。
プロローグは、1911年にローセルの岩陰で発掘された名高い「角を持つヴィーナス(ローセルのヴィーナス)」。
都市「ボルドー」のはじまりは、紀元前1世紀初頭のガリア人の商都「ブルディガラ」。古代ローマの属州アクィタニア(現在のアキテーヌ)の中心地として発展した。豊穣や多産を意味するといわれるヴィーナスが手にした角もまた、三日月形。太古の造形が、「月の港」を象徴するようだ。
12世紀から15世紀までのボルドーは、約300年にわたるイギリス領時代を経験した。
ワイン産業のほか、スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の街として発展。16世紀の宗教戦争のただ中では、寛容の精神を説いたフランス・ルネサンス最大の思想家モンテーニュを輩出している。
地下の暗い展示室で、古代の装身具やワイン壺、中世の武器やレリーフがキラキラ光り輝くさまは、まるでファンタジーの世界に迷いこんだよう! 想像以上に心が躍った!
フロアを上がると一面の青い壁に、 18世紀の「月の港」の世界が広がる。
この時代、ボルドーは交易とワイン産業の黄金期を迎えた。パリに先立って都市整備が進められ、「世界一エレガントな街」と讃えられる都市景観が誕生。英国の東インド会社の社長の肖像やアンティル諸島の黒い肌の女たちの絵画も並び、在りし日の国際都市の繁栄がしのばれる。
繁栄を支えたワイン商や、貴族の暮らしぶりを伝える絵画や装飾芸術も並ぶ。 「ボルドー式」と呼ばれる箪笥や肘掛け椅子、華やかな食器類、
そして古典主義の絵画は、アンリ・オーラス・ロラン・ド・ラ・ポルトの『ハーディ・ガーディのある静物』(1760/ボルドー美術館蔵)。シャルダンの影響下の静物画であり、同年に殺された作曲家ルメール(兄)の楽譜が描きこまれた「メメント・モリ」の作品にもなっている。
1789年、大革命の火はボルドーへも。革命の場面(ネッケルの呼び戻し)が描かれた扇子や、「1789年、自由に乾杯」と描かれた記念プレート(?)に胸が熱くなった。
とはいえ、ボルドーは王党派だったらしい。
ナポレオン失脚後、ルイ18世によって王政復古がはじまる。弟アルトワ伯がシャルル10世として王位を継ぐが、その長男アングレーム公は世継ぎに恵まれず、次男ベリー公は暗殺されてしまう。
そのため、ベリー公の遺児アンリ・ダルトワはブルボン王家唯一の後継者として「奇蹟の子」と呼ばれた。そしてその「奇蹟の子」につけられたのが、なんと「ボルドー公爵」という称号だったのだ。その称号は、ブルボン家による王政復古に最初に歓びを表明したボルドー市への感謝をこめて、ルイ18世が贈ったものだという。
1830年の七月革命でオルレアン家のルイ・フィリップに王位が移ってしまうと、ボルドー侯爵は「正統王党派のシンボル」に。この美しい少年の肖像を描いたさまざまなグッズが、プロバガンダのために制作された。
19世紀に入ると、ボルドーは海運業の衰退によって昔日の勢いを失っていく。
しかし、1801年に設立されたボルドー美術館によって、街の文化事業は展開。ドラクロワ晩年の大作『ライオン狩り』を中心に、
ボルドーで最期の日々を過ごしたゴヤの版画や、ロマン主義を中心とするボルドーゆかりの画家たちの作品までが紹介されている。
ドラクロワは、父親がジロンド県知事を務めた関係でボルドーで幼年期を過ごした。『ライオン狩り』は1855年のパリ万博のために政府の注文で制作され、万博終了後、ボルドー美術館へ。不運にも1870年の美術館火災で損傷を受け、画面上の一部を失ったが、それすらも歴史の一部としていとおしい。
オディロン・ルドン『ゴヤ讃』の角を曲がったところで微笑むのは、ギヨーム・アロー『サマズイユ夫人の肖像』(1904/ボルドー美術館)。
アローはボルドーの画家一族に生まれ、名士たちを描いた。肖像の彼女は作曲家サマズイユの妻。ベル・エポックの社交界がしのばれる肖像画のスタイルが優美だった。
エピローグは、ワインに関連する作品や資料などの展示を通じて、世紀転換期の都市ボルドーの肖像を描き出す。
しかしなにより感じたのは、「ボルドー=ワイン」という短絡思考はつまらないという確信だった。モンテーニュ、モンテスキュー、モーリヤックという「3M」を生んだ文学と思想の故郷であること、画家ゴヤとのつながり、ナントとの共通項――たくさんの発見に満ちた旅だった。
歴史はパリだけでつくられるわけではない、とあらためて。
「ボルドー展」は9月23日まで。人それぞれの「月の港」が見つかるだろう。