フランス史上、最も有名な王妃の波乱に満ちた生涯をたどる「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展」(森アーツセンターギャラリー)。
昨年10月25日にスタートしたこの展覧会は、この1月で20万人を超える来場者を記録。「没後200年あまりの歴史でかつて3回しかないほど大規模な展覧会」は、その独自性で幅広い層の注目を集めている。私もまた、月1回のペースで「王妃に謁見」しつづけ、まもなく4か月目になる。
それほどにこの展覧会には、決して「きれいね」だけで終わらない、「ほんとうのマリー・アントワネット」を伝える重みと情熱があるのだ。
ウィーンでの皇女時代から14歳での結婚、ヴェルサイユでの輝かしい日々をご紹介した前編に続き、後編では母として、そして「女王」として革命に立ち向かっていくアントワネットの姿を追っていく。
§第9章§
王妃の詩的な離宮:トリアノン
「王妃の図書館」でやさしい音色に心が安らいだあと、輝くばかりの「王妃の居室」(いずれも再現)を抜けると、そこに広がるのはやさしく上品なペールグリーンの世界――バロックの荘厳な宮殿から逃れるための王妃の離宮、プチ・トリアノンである。
ルイ16世は1774年、王妃にこのプチ・トリアノンを与えた。
ちょうどこの頃、「自然」にも目覚めました。人気作家ルソーが唱えた「自然」は、まさに私が求めていたもの。そんな暮らしを実現する舞台として、陛下が戴冠の記念に贈ってくださった小さな離宮を選んだのです。陛下はこうおっしゃいました。
「あなたは花を愛するそうですね。だから私はあなたに、花束を贈ろう。このプチ・トリアノンを」*1
「小さなウィーン」と呼ばれるようになったトリアノンは、私的で親密な王妃だけの世界だった。英国式庭園やジュ・ド・バーグ(環遊び)、小さなオペラ座が作られ、女主人である王妃自身はゆったりした白い「ゴール・ドレス」着て、最新モードだった「自然」を思う存分満喫した。
ヴィジェ・ル・ブラン《ゴール・ドレスを着たマリー・アントワネット》 ©Courtesy National Gallery of Art, Washington
シンプルな「ゴール・ドレス」を着て、宝飾品は身につけず、「女羊飼い風」とか「女庭師風」などと呼ばれた麦わら帽子をかぶり、帽子にはダチョウの羽根飾りをつけている王妃。
この大胆な装いは案の定、保守的な宮廷人たちの非難の的となった。ヴィジェ・ル・ブランはその『回想録』で、「悪意のある者たちは、王妃が自ら下着姿を描かせたのだと口々に言った」と伝えている。あまりにも悪評が広がったため新たな肖像画の注文を受けたヴ画家は、前回と同じ優美なポーズで、しかし今度はきちんとしたポーランド風の絹のドレスを王妃に着せたのだった。
1783年に王妃は、プチ・トリアノンの人工池の周りに農村(アモー)を作らせ、あいかわらずの宮廷の煩わしさや陰謀、中傷から逃れ、子どもたちと牧歌的な暮らし楽しんだ。あるいは仲間とともに「貴族一座」を旗揚げし、素人演劇を楽しんだ。
王妃は古い宮廷のしきたりに囚われることなく、様々なジャンルの人々と交遊したが、その舞台となったのがこの、トリアノンだったのだ。
トリアノンの横には、王妃と日本の関わりを示す食器のコレクションルームも設えられている(第8章「マリー・アントワネットのセーヴル磁器の食器セット」)。
王立セーヴル磁器製作所《皿「日本」》
マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮で開催されたセーヴル製作所の販売会で、「日本」をイメージした食器セットを自ら購入した。王妃はこれを、東洋趣味だった母のマリア・テレジアに贈ったという。
スープ鉢2点、ボトル・クーラー2点、皿36枚から成るこのセットは、日本の伊万里焼を下敷きにした独特の装飾。セーヴルの絵付け職人たちは、ヨーロッパの陶磁器の曲線状のフォルムの上に青地を施し、そこに絵柄を描き、釉薬の上から鉄赤色の線描を補い金箔をあしらうという、日本の磁器の技法を用いた。カルトゥーシュと呼ばれた巻き紙の縁飾りのなかに桜や菊を集めているのも、日本に着想を得たものだった。
§第10章§
首飾り事件
いよいよ、革命の足音が近づいてくる。
1785年を象徴するこの有名な事件は、ルイ15世の治世の末期に端を発していた。550個以上のダイヤモンドからなる豪華な首飾りを愛人デュ・バリー夫人に贈るつもりだった国王が、その完成を待たずに亡くなってしまい、宝石商たちは引き取り手としてマリー・アントワネットをターゲットに。しかし王妃は購入を拒否していた。
そこに登場するのがラ・モット伯爵夫人だ。彼女は王妃から不興を買っていたロアン枢機卿に「自分は王妃と親しい仲にある」と信じ込ませ、王妃のために首飾り購入を仲介すれば、再び寵愛を得られると騙したのだ。ロアンは首飾りを購入しラ・モット夫人に託したが、それはすぐさまイギリスに転売されてしまった。何も知らない王妃のもとに宝石商たちが請求書を届けたことで、一連のスキャンダルが発覚した。
完全なる被害者であったにもかかわらず、国中に広まったこの事件によって、「軽薄で浪費家」というマリー・アントワネットのイメージが定着したのである。
シャルル・オーギュスト・べメールとポール・バッサンジュの原作に基づく《王妃の首飾り(複製)》
もともとマリー・アントワネットは政治に関心はなかった。ところが1787年、王のよき助言者たちが次々に亡くなってしまい、彼女は秘密の花園から、厳しい政治の舞台へと引きずり出される。
当時のフランスは深刻な財政危機に加えて、天候異変による凶作にも悩まされていた。事態を打開するため、王妃は国民に絶大な人気を誇る銀行家ネッケルを財務総監として招くよう、王に進言した。招かれたネッケルは全国三部会の招集を提案。三部会は招集されたが、1789年6月17日、議決方法をめぐって決裂。結果として、第三身分(平民)の議員たちが「テニスコート(ジュ・ド・ポーム)の誓い」を宣誓したのである。
§第11章§
革命の動乱の中の王妃
1789年7月14日、激昂した群衆がバスティーユ牢獄を襲撃した。革命の勃発である。
宮廷は恐怖に凍りついた。暴徒となった民衆たちは、すでにバスティーユの司令官と兵士たち、パリ市長などを虐殺していた。民衆の怒りがどのように爆発し、どこまで広がっていくのか、まったく見当がつかなかった。
10月には、パンを求める女たちを先頭にした民衆がヴェルサイユの王宮になだれ込んだ。多くの兵が虐殺され、首が槍の上にさらされた。数人の側近に守られた国王一家は、民衆のわめき声をただ聞いているしかなかった。「王妃を出せ!」という声も上がった。王妃はバルコニーに出て、両腕を胸の前で組み合わせたまま、ゆっくりと頭を下げた。
威厳に満ちた王妃の姿は、人びとの戦意を奪った。かわりに「パリへ!」という声が湧きおこった。こうして国王一家は、パリのチュイルリー宮殿へ移ることになったのである。
チュイルリー宮殿で一家は、奇遇にも家族水入らずの時間を過ごすことになった。
ヴェルサイユ時代よりむしろ私的で家族的な時間も増えた。ビリヤードゲームや庭園の散歩、食事会などを楽しむ機会もあったという。
ところが、革命勃発から2年近く経った1791年6月、一家は逃亡を企てる。ヴァレンヌで捕えられた彼らはパリに強制送還。その限界が露呈した王政は、翌年8月10日のチュイルリー襲撃により完全に終わりを告げた。
以降、囚われの身となった国王一家はタンプル塔に幽閉され、質素な隠遁生活を耐え忍ぶことになる。とりわけ王妃に対する世間の反感は頂点に達し、無数の版画やパンフレットで非難、中傷の的となった。
私はまだ生きています、でも、それは奇跡なのです。
§第12章§
牢獄から死刑台へ
王妃の最期の息吹を伝える部屋の壁は、黒で統一されている。
《マリー・アントワネットのシュミーズ(肌着)》©Fr. Cochennec et C. Rabourdin/Musée Carnavalet/Roger-Viollet
囚われの身となった国王一家が衣装を所望したため、革命政府は王室に仕えていた御用商人にそれを依頼したが、供給された下着や衣類は質素なものだった。
王妃の身の回りの品のなかには、「15点の小さなレースが施された薄手の布製シュミーズ」があった。このシュミーズは、バチストと呼ばれる薄手のリネンの白布で出来ている。バチストは18世紀末にはもはや贅沢品ではなく、下着などに用いられるようになっていた。
マリー・アントワネットの死後、王妃のシュミーズは娘マリー=テレーズによって保管され、1795年にタンプル塔の警視エティエンヌ・ラヌの手に渡った。
ルイ16世は裁判にかけられた後、1793年1月21日にギロチン刑に処された。
7月には、王妃と次男が離別させられた(長男は、革命前夜の1789年6月に亡くなっていた)。母親としての悲しみや絶え間ない屈辱を耐え忍びながらも、マリー・アントワネットが王妃としての威厳を失うことはなかった。
1793年10月3日、マリー・アントワネットは革命裁判所に召喚された。短い裁判を経て、国家反逆罪とされ死刑判決が下された。
妹よ、あなたに、最後の手紙を書きます。私は判決を受けたところです。しかし恥ずべき死刑の判決ではありません(死刑は犯罪者によってのみ、恥ずべきものなのですから)。あなたの兄上に会いに行くようにとの判決をくだされたのです。
10月16日、死刑台に連行。ウィリアム・ハミルトンは、この最後の瞬間をカンヴァスにとどめている。
ウィリアム・ハミルトン《1793年10月16日、死刑に処されるマリー・アントワネット》©Coll. Musée de la Révolution française/Domaine de Vizille
処刑の日、マリー・アントワネットは、朝のドレスとして使っていた部屋着――無実と無垢の象徴である白い部屋着を着た。その様子は威厳に満ちていた。彼女が告解することを拒んだ立憲政府の司教が死刑台まで同行し、死刑執行人アンリ・サンソンが両手を縛った。
展覧会のクライマックスといえるのも、このとき履いていた王妃の靴だ。
この靴は、王妃の足から滑り落ちたまさにその時、ある人物に拾われ、すぐにある貴族の手に渡った――短靴に添えられている記載が、その来歴を語っている。
どの文献資料も、脱げ落ちた靴のことには言及していないけれど、彼女が自らの運命に決然と立ち向かったことは、複数の証言がはっきりと述べている。
勇気だけでなく一種の性急さをもって、彼女は死刑台への階段をのぼった。
だから、靴が脱げ落ちたことは、あり得ないことではない。
王妃の最期の数週間に付き添った獄吏によると、この頃、彼女が「サン=チュベルティ風の」黒い短靴を一足所有していたことがわかっている。
《マリー・アントワネットの「サン=チュベルティ風の」短靴》 王妃の処刑もしくは埋葬の時に収拾 ©Musée des Beaux-Arts de Caen, cliché Martine Seyve
この靴の前にはじめて立ったとき、湧き上がってきた感情をどう説明すればよいのかわからない。
彼女は本当に生きていたんだ、という衝撃。この靴で、どんな思いで歩みを進めたのかという感慨。それでも歩みつづけようとした人のオーラに、圧倒されるような不思議な熱狂――それがなんなのかを知りたくて、私はくり返し、展覧会へいくのだと思う。
今回、展覧会に接しながら多くの文献を紐解いたことで、とくに革命が起こってからの王政を支え、不屈の精神で現実に立ち向かい、政治家ミラボーをして「王のそばには男が一人しかいない。それは彼の妻だ」と言わしめた彼女に、母マリア・テレジアの血を感じずにはいられなかった。
不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるかを本当に知るものです。
美点もあれば欠点もある、そんな普通の――しかし最も美しく誇り高い女が、人々を愛し、愛され、悩み、闘い、それでも世界を力強く歩もうとした。それがマリー・アントワネットの生涯だった。
その短い生涯は、彼女自身が「女王」にいたる道の途中だったのだと、私は信じてやまない。
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*1:CD『マリー・アントワネットの音楽会』(高野麻衣 執筆/ワーナーミュージック・ジャパン)