ポーの一族

雲が重苦しく空に低くかかった、もの憂い、暗い、寂寞とした秋の日を一日じゅう、私はただ一人馬にまたがって、妙にもの淋しい地方を通りすぎて行った。そして黄昏の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。――エドガー・アラン・ポー/佐々木直次郎訳『アッシャー家の崩壊』

 今年は、ポーの生誕200周年なのだった。
文筆家/ピアニストの青柳いづみこさんが満を持して、意気込みたっぷりで、ドビュッシーの歌劇《アッシャー家の崩壊》(未完)を上演した。併せて「ポーと音楽」の浅からぬ因縁を示す小品をいくつか。
すばらしい、ゴシックな夜だった。
 
《ペレアスとメリザンド》以降、ドビュッシーがエドガー・ポーの原作によるオペラを構想していたことは有名だ。
しかし、それらがどんな音楽だったかはほとんど誰も知らない。
このへんの事情は、企画者自身の簡潔な文章を引用しよう(『三田文学』 2009年夏期号より)。

原作は言うまでもなく、今年生誕二百年を迎えたエドガー・アラン・ポーの怪奇小説である。脚色はドビュッシー自身で、ボードレールの仏訳にかなり手を加えている。 ポーの原作は『早すぎる埋葬』と『ウィリアム・ウィルソン』をドッキングさせたようなプロットで、アッシャー家の末裔であるロデリックとマデリンが鏡の映像のように似通っているところがミソなのだが、何とドビュッシーはこの二人の年齢をぐっとひきはなし、ドッペルゲンゲルにとり殺される恐怖というパターンをあっさり崩してしまった。

ドビュッシーはまた、原作ではほんの少ししか登場しないアッシャー家の侍医の役割を大幅に拡大させ、マデリンに横恋慕し、兄をさしおいて勝手に生き埋めにするというグロテスクなキャラクターに仕立てている。台本のほうは三種類もできたのにかんじんの音楽はさっぱり筆が進まなかった。ファイナル・ヴァージョンにつけられた音楽は、一場がヴォーカル・スコアの形で清書されたものの、二場の途中で途切れ、マデリンの歌う「幽霊宮」のアリア、あちこちの断片、そしてラストなど、全体の三分二程度しか残されていない。

この「幽霊宮」のアリア、原作では兄の歌うバラッドがマデリン――どうしてもメリザンドを髣髴とさせる「宿命の女」の、澄んだソプラノ(森朱美)で再現されたときの感動。
彼女を取り巻く3人の男はいずれもバリトンである(!)。
これはわたしのためのオペラではないか、という錯覚にとらわれる。
どうして死んじゃったのクロード!
と、わたしは後半のそれだけで音楽のような朗読劇を聴きながら身もだえた。
ここに彼の音楽がついたら――特にクライマックスの「気違いめ! 彼女はいまその扉の外に立っているのだぞ」など――いったいどんな傑作になったことだろう。
 
冒頭のドビュッシーの4曲は、いずれも《アッシャー家》ほか、ポーに基づくオペラと楽想を共有している。ハープ絡みの2曲は、それぞれ『告げ口心臓』『赤死病の仮面』が元ネタ。
これらすべてが、音楽史のなかにひっそりと佇む「ポーの一族」なのである。

早川りさ子の演奏は破綻がなく優雅だったが、それ以上に、いづみこさんの、アンコールの選曲まで論考的なワガママをつらぬき通すポーヲタぶりに脱帽。
わたしがいづみこさんの本を好きなのは、彼女の好きなものがはっきりしているからなのだとおもう。
なにを話したいのかが、こちらに明確に伝わってくる。
たぶんポー本も出すんじゃないか。いや、出してほしい。

まずは、ひさしぶりにポー(萩尾望都じゃないほう)を読み返そうとおもう。
 
 
http://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/event/2009/09/event299.html 

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)

 

  

[概要]

音楽になったエドガー・アラン・ポー
―ドビュッシー『アッシャー家の崩壊』をめぐって―
企画・構成・制作/青柳いづみこ

クロード・ドビュッシー:
弦楽四重奏曲(抜粋)
コンクール用の小品
クロタルを持つ踊り子のために ~六つの古代碑銘
カノープ ~前奏曲集 第二巻
オンディーヌ ~前奏曲集 第二巻

アンリエット・ルニエ: 幻想的バラード (ハープ独奏)

アンドレ・カプレ: 赤死病の仮面 (ハープと弦楽四重奏のための)

クロード・ドビュッシー:
歌劇《アッシャー家の崩壊》(未完/ロバート・オーリッジ編)

――アンコール
シリア人の合唱「美しきアドニスは死せり」 ~神秘劇『聖セバスティアヌスの殉教』

 
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