25ans 6月号(4/28)のテーマは「空を見上げる」。中谷美紀の日記文学「オーストリア滞在記」を中心に、5月の空を感じる本や映画をご紹介したい。
日差しも心地いい季節にふさわしいテーマは、世界の天井画を集めた写真集『名画を見上げる』に耽溺したときに思いついた。なにかを見上げるとき、人は少し立ち止まり、深呼吸したくなる。日常でそんな一瞬を味わい、インスピレーションを与えてもらうために、わたしたちはカルチャーの力を借りるのだと思う。
映画『約束の宇宙』では、「心を照らす星」という言葉が心に残った。見過ごしてしまいそうな「星」を見つけられるのも、立ち止まる時間があってこそ。食事や散歩の時間もいとおしくなる、初夏の作品たちだ。
Focus
『オーストリア滞在記』
音楽と知性に満ちた日記文学
日記のなかで、内面的な深みをもち、描写が文学的にすぐれているものを「日記文学」という。
蜻蛉日記や更級日記から武田百合子の『日日雑記』まで、とりわけ女性の手による日記文学が好きだ。この春、中谷美紀『オーストリア滞在記』を読みはじめてすぐに浮かんだのは、「近年まれにみる傑作日記文学」という惹句。3月に購入してひと月あまり、箱入りのチョコレートのように少しずつ紐解く多幸感を味あわせてもらった。
ウィーン・フィルのヴィオラ奏者と結婚し、ザルツブルクでの田舎暮らしをはじめた中谷が、コロナ禍の夏を綴った日記である。家事のあいまにドイツ語をレッスンし、8歳の義娘と思いきり遊び、庭づくりに奮闘する日々。規制緩和されたウィーンのレストランや音楽会の話題も登場するが、日記のほとんどは、大自然に囲まれた別荘でのなんでもない日常の繰り返し。その気取らなさこそが、最高にかっこいい。
「なんでもない日常」にアクセントを与えるのが、日々の献立とBGMのメモだ。日記文学にとって大定番ではあるが、気のきいたメニューや選曲に、中谷美紀という人への好感がより一層高まった。おいしいものと音楽を慈しむ人は、問答無用で信頼できる。
そして、なによりも印象深かったのが、その佇まいと同様に美しい日本語。彼女がいくつもの本を刊行していることは知っていたが、手にしたのははじめて。知識と経験、深い思索をあくまで品よく忍ばせて、ユーモアも忘れない筆致に感動を禁じ得なかった。外国生活につきものの驚きや発見はもちろんだが、差別などのネガティブな話題でもそれぞれの国民性にレッテルを貼ることなく、冷静に対処し記録する。ほんとうの知性と品格とは、こういう姿勢のことではないか。
好奇心を忘れず、世界とまっすぐ対峙すること。煩わしいオンラインの画面から顔を上げさせ、紙の上でゆっくりと、こうした日本語や音楽の響きを届けられる書き手でありたいと、強く思う。
https://www.gentosha.co.jp/book/b13532.html
line up
【本】オーストリア滞在記/逃避の名言集/名画を見上げる【音楽】怖いクラシック【美術】モンドリアン展/イサム・ノグチ 発見の旅/ライゾマティクス_マルティプレックス【映画】約束の宇宙/ブックセラーズ/ローズメイカー【舞台】コッペリア/未来の幽霊と怪物
『約束の宇宙』
会えない時間に気づく、心の中の大切な「星」
ロケット打ち上げまでの日々を描く、宇宙飛行士のシングルマザーと幼い娘の成長物語。フランス人宇宙飛行士のサラを演じるエヴァ・グリーンや、チームリーダー役のマット・ディロンといった実力波俳優陣に加え、坂本龍一が担当したエモーショナルな音楽にも注目。欧州宇宙機関(ESA)の協力により関連施設で撮影された宇宙飛行士たちの知られざる世界に驚嘆しながら、人生を支える「心を照らす星」の存在に気づかせてくれる。
『ブックセラーズ』
本を売り、本を愛する。ニューヨークブックフェアの舞台裏
社会情勢やデジタル化で、本をめぐる世界が揺れ動く現代。書店は、本は、未来に生き残るのだろうか――そんな問いに応えてくれる、傑作ドキュメンタリーが届いた。世界最大規模のニューヨークブックフェアの舞台裏から、ブックディーラー、書店主、コレクターなどユニークな人々が本への愛情を披露する本作には、作家たちのインタビューや「不思議の国のアリス」のオリジナル原稿なども多数登場。本のない未来なんて、きっと考えられなくなるはず。
http://moviola.jp/booksellers/
『ローズメイカー 奇跡のバラ』
笑って泣いて、希望が咲く。はみだし者たちのバラ作り
魔法のような指で新種のバラを開発し、数々の賞に輝いてきたエヴ(カトリーヌ・フロ)。倒産寸前の彼女のバラ園に、職業訓練所から派遣された3人のスタッフが加わるも、素人の彼らは足を引っ張るばかり。そんな中、エヴは世界初となる新種のバラの交配を思いつき、コンクールに挑むことを決心をする。ありえない出会いが、それぞれの生き方を変えていく爽快なサクセスストーリーと、スクリーンにあふれる5月のバラを味わいたい。
https://movies.shochiku.co.jp/rosemaker/
(25ans 6月号より加筆修正)