9月です。お世話になっている企業の受付嬢が、出産のため退職することになりました。京美人の彼女は、ジル・スチュアートやヨーロッパのお城やロイヤル・セレブの話題で盛り上がれる貴重な女友だちでした。おっとりやさしく笑い上戸。「プリキュアの主人公みたい」と称されていた向日葵のような彼女のことが、私は大好きでした。
出版や言論の業界では、こういう女性は少数派なのです。「もの書く女」というのは、多かれ少なかれ自意識過剰。「恋愛しか頭にない女とは違う」というコンセンサスが、恋人の有無や未婚/既婚にかかわらず徹底しています。私はそれが、息苦しくてなりません。ある日の編集会議で同僚が言った一言はこう。
「ディズニーならデイジー・ダックがいちばんすき!」
はっとしました。なぜなら私は「女の子はミニー・マウスがお好き」と信じてうたがわない人生を歩んできたからです。ミニーとはすなわち主人公(ミッキー)の恋人で、みんなのマドンナでもあるヒロイン役です。シンボルはリボンやお花。イメージカラーはピンク。好きなものはお菓子作りにショッピング。負けん気は強いけれど愛嬌たっぷりな「女の子」です。
もちろん、頭ではわかっているのです。世に松田聖子派と中森明菜派がいるように、ミニー派ではない女の子はたくさんいるし、自分自身のなかにもデイジーな部分はある。当然のことです。人はだれも、一面だけでは語れないのだから。
私が息苦しいのは、ミニー派劣勢の環境にいるせいかもしれません。多数派の同調圧力というのは、思いのほか堪えるものです。
しかし、もっといやなのは、近年のオタクの市民権獲得や「干物女」「オヤジ女子」などの人気もあいまって、一般の女性たちのあいだにも「自虐芸」というべき社交術が蔓延しているような気がすることです。女性が凛と生きることとオヤジ発言をすることは、まったく別物なのに。
女に生まれたからにはきれいでいたいし、恋していたい。だから私は「姫キャラ」でいこう――そう決意して書き続けているうちに、読者から一通のメールいただきました。「どうして私はキラキラをあきらめてしまったんだろう」。あまりにも真摯で、涙がこみあげました。受付嬢に出会ったときもそうでした。彼女たちがいる限り、私は書いていこうと思えるのです。
(2013年9月6日付「新潟日報」初出)
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