天才音楽家モーツァルトの生誕260年を記念して製作された、英国/チェコ合作映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』が公開された。
映画のモチーフとなるのは、村上春樹の小説『騎士団長殺し』でも話題となったオペラ《ドン・ジョヴァンニ》。モーツァルトがその一部をプラハで作曲したという史実から、作曲家と美貌のオペラ歌手、そして悪魔のような男爵の「危険な関係」—―あるいは名曲誕生の秘密をめぐるミステリーを創作、新しいモーツァルト像を生み出している。
7歳でモーツァルトに出会って恋におち、彼の影響でピアノや声楽を学び、短期留学先にザルツブルクを選び、ついには音楽について書くことを生業にした私は、『アマデウス』を筆頭に数多くの二次創作(ミュージカルや小説、漫画、アニメなど)を通して推し(モーツァルト)を追いかけてきた。そんな人間が、ここにきてようやく、理想のモーツァルトに出会った気がしている。
今回は「なぜモーツァルトが好きなのか」という命題を織り交ぜつつ、歴史二次創作がもつ「新解釈」の魅力に迫ってみたい。
美しきプラハ
1787年、プラハ。映画は、オペラ《フィガロの結婚》の一場面、伯爵夫人の美しく切ないアリア「愛の神よ、救いませ」の舞台からはじまる(予告冒頭)。
その華麗な18世紀の室内装飾とドレスにまず、私はこの映画の本気度を感じた。
手がけるのはルチャーナ・アリギ。ジェームズ・アイヴォリー監督と組んだ一連の作品群—―『ハワーズ・エンド』(1992年)『日の名残り』(1993年)『サバイビング・ピカソ』(1996年)で著名なアカデミー美術賞受賞者であり、ザルツブルク音楽祭ではオペラ《仮面舞踏会》も手がけた“わかっている人”だ。
モーツァルトが実際に訪れた劇場など、中世の街並みが色濃く残るプラハ市街で全編ロケを敢行した本作。予告編からも、その美しい街並みや、プラハ市立フィルハーモニー管弦楽団が演奏を担当したオペラシーンが垣間見れる。
そもそもプラハは、モーツァルト・ファンにとって聖地のひとつ。
革命前夜、ハプスブルク帝国の首都ウィーンでは早々に打ち切られてしまった渾身のオペラ《フィガロの結婚》だが、プラハでは大ヒットしたのだ。モーツァルトは友人に宛てて、こんな手紙まで残している。
6時になるとカナル伯爵と共に、プラハ中の美女が集まる舞踏会に向かった。(中略)いちばん嬉しかったのは、そこにいた人々全員がカドリーユやワルツに編曲された僕の『フィガロ』を喜びながら、飛び回っていたことだ。話題は『フィガロ』だけ、演奏も『フィガロ』だけ、歌や口笛も『フィガロ』だけ、大入りになるオペラは『フィガロ』だけ、とtにかく『フィガロ』だけ—―とても嬉しかった!
冒頭の舞台で伯爵夫人を演じていたのは、モーツァルトの友である歌手ヨゼファ夫人(サマンサ・バークス/上)。
舞台がはねたあと、客席にいた地元名士たちは豪奢な食事の席を囲み、「モーツァルトを呼び寄せ新作を依頼しよう」と盛り上がる。そこに、不穏な表情の貴族がひとり。権力者サロカ男爵(ジェームズ・ピュアフォイ)だ。
男爵の思惑など知らずプラハにやってきたモーツァルトは、《フィガロ》で美少年ケルビーノを演じる若手歌手・スザンナ(モーフィッド・クラーク)に出会い、魅了される。スザンナもまた、妻帯者と知りながらモーツァルトの才能に惹かれていくが、急接近する2人の前に男爵が現れて—―これが物語のあらすじだ。主要キャストにはすべて、英国が誇る名優が揃っている。
モーツァルトの理想形
とりわけ素晴らしいのが、主人公モーツァルトを演じる英国若手俳優アナイリン・バーナードの眼差しだ。
「よろしく、薔薇のお嬢さん!」とかなんとか、いい声で鼻歌まじりに登場したときにもはっとした—―天才で人気者で女の子には絶対やさしいロックスターぶりがこのシーンだけではっきりわかる—―が、じっくり見つめているとこの人、なんとも「モーツァルト的」としか言いようのない魔性の眼差しをしている。
たとえば、以下はスザンナをはじめて逗留先に招き、恋の予感にウキウキのモーツァルトだが、
この一抹の憂い、おわかりだろうか。これがモーツァルトだ。
当然、「この憂いを帯びた眼差しの俳優は誰だ」となる。
アナイリン・バーナード(Aneurin Barnard)。1987年ウェールズ生まれ。愛称は「ナイ」。大学で演技を学びロンドン・ウェストエンドで舞台に立った後、2009年のロック・ミュージカル『春のめざめ』メルキオール役でローレンス・オリヴィエ賞最優秀主演男優賞を受賞。以後、歴史大作中心に活躍。BBCドラマ『The White Queen』でリチャード三世を演じたり、NHKでもオンエアされた同『戦争と平和』(2016)にも出演していた。
「そうそう、あのとき口下手なボリスに扮していたのは彼だった!」などと見返してみたが、モーツァルトほどの印象はない。最近ではクリストファー・ノーラン監督のヒット作『ダンケルク』ギブソン役(やはり無口)でも話題になったが、役者には、当たり役というものがあるんだな、と感心してしまう。
とにかく私はモーツァルトが好きなのだ。そして彼は、その化身だった。
『アマデウス』やあまたの「音楽家を身近に」キャンペーンによって、女好きでちょっと下品な変わり者のイメージが打ち立てられてしまったモーツァルト。
だが、私はそれよりも、革命前夜の時代の空気をかぎとり《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》(=貴族が謝罪・破滅する物語)を描いた先進性だとか、そうした信念のためなら上に歯向かうベートーヴェン並の反骨心だとか、それでも音楽にはエレガンスを貫いたある種のダンディズムだとか、そういう「モーツァルトの素顔」がもっと、広く知られるべきと思っている。
そして、そういうモーツァルトと変わり者のモーツァルトのあいだにあるギャップにこそ、この音楽家の魅力は詰まっていると思う。バーナードのモーツァルトは、それを体現していた。
この、迷子のような表情を浮かべた彼を見たとき、「ああ、これがモーツァルト」という天啓が聞こえたほどだった。
天才の光と影—―モーツァルトの奥深いところに、人は孤独と深淵を想像してしまう。
交響曲第40番にまつわる小林秀雄の言説を全肯定するわけではないが、以下はやはり、名言と言わざるをえないだろう。
モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。
騎士団長とは誰だったのか
モーツァルトの「かなしさの疾走」は、映画後半にかけて急激に高まっていく。
本作のおもしろさは、モーツァルトが探偵役を務めるミステリーでもあることだ。ある父親と娘を襲った悲劇—―そしてもうひとつの悲劇を線で結び、証人たちから話を聞き、真実を解き明かしていくモーツァルト。
そして、元凶であるサロカ男爵(=貴族)を断罪するため、この名探偵(=平民)にできるのはペンを執ることのみ。墓地にそびえる石像を見つめるモーツァルトのなかに、《ドン・ジョヴァンニ》の主題が降りてくる一連のシークエンスは必見だ。
作曲を進める彼のもとに、ウィーン郊外で療養していた妻コンスタンツェが駆けつけたのもうれしい演出だった。
昼夜もなく音楽に憑りつかれたような夫に、慣れた様子で熱いパンチ酒を作り、凛々しい表情で微笑みかけるコンスタンツェ。安堵した様子のモーツァルト。
その様子は「献身的な妻」「内助の功」というよりは、「姐さん」あるいは「トップ娘役」という雰囲気で、これもまた理想のコンスタンツェ像にようやく出会えた気がしてうれしかった。
《ドン・ジョヴァンニ》に新しい解釈が加わったことも、大いなる収穫だった。
ここ数十年はやはり『アマデウス』の影響か、「騎士団長殺し(=父殺し)」をした大罪人が地獄に堕ちるという《ドン・ジョヴァンニ》の筋書きに、ステージパパ・レオポルトに逆らったモーツァルト自身の後悔を読み解くのが定説のようになっていた。前述の村上春樹の小説も、この父殺しとのリンクが指摘されることが多い。
しかし、真相はわからない。サロカ男爵の事件はもちろんフィクションだが、同じように貴族の横暴への怒りがあったかもしれない。もっと新しい、隠された事件があったかもしれない。歴史に定説なんかないのだ、とあらためて思わされる。
先日、とあるマンガレビューで以下のように書いた。
歴史物の魅力は、その運命を知っているはずの登場人物に死なないでと願ってしまったり、好きすぎて聖地巡礼するうちに新しい世界の扉が開いたり、「あの事件の裏にはこんな真実が」「こんな心理的要因が」という新解釈が無限に生まれたりすることだと思う。
「真理は時の娘(真理は時間がたてば明らかになる)」――
かつて劇作家ピーター・シェーファーの『アマデウス』がそうであったように、この映画が21世紀の新たなモーツァルト像の一助となることを、願ってやまない。
※正しくは2016年制作の「生誕260年記念」作品です。
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