カーネギーホールの死闘|セッション

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「ラスト9分19秒」のショックの余韻が、いまもおさまらない。

試写室を出たあと、まるで強烈なコンサートの帰り道のようにたどたどしい足取りと、泣きそうなほどの高揚を抱えて、ようやく帰宅した。正直、なんでこんなに泣きたいんだろう、と不思議だった。悲しいわけではない。「泣けるいい話」だったわけでもない。ただただ、強烈だったのだ。

名門音楽大学に入学した19歳のドラマー、アンドリュー(マイルズ・テラー)は、伝説の鬼教師と恐れられるフレッチャー(J.K.シモンズ)のバンドにスカウトされる。偉大な音楽家になるという野心を叶えたかのように喜ぶアンドリューを待っていたのは、「天才の創造」に憑りつかれたフレッチャーの「狂気のレッスン」。軍隊のような異常なレッスンや、両者のキャラ設定や関係性はそれだけでも最高におもしろいが、いわゆる「スポ根サクセスもの」や「天才と天才の創造者もの」の“音楽版”だと感じていた――中盤の、あるシーンまでは!

そこを境に、物語は、予想もしない方向に転がっていく。

まるでサスペンスだ。『DEATH NOTE』のような「と、見せかけてこうだ!」の心理戦に、わたしたちは何度も何度も裏切られる。なんという快感。

そして、狂気のはての壮絶なセッションがはじまる。

飛び散る汗、どころではない血しぶきである。舞台はカーネギーホールなのに、まるでリングの上で闘うジョーと力石みたいだった。「フレッチャー!あんたのこと、最初は丹下だとおもってたけどじつは力石だったのね!」と愕然とした。と

どめが、あの表情だ。最後のふたりの表情を見たら、これは傑作だと言わざるをえない。

 

人と人が出会ってセッションをする行為には、「懐に飛び込む」とか「同じ釜の飯を食らう」と同じような意味が潜んでいる。彼らが音楽に真剣なら真剣なほど、セッションの意味合いは深くなっていく。

(高野麻衣『マンガと音楽の甘い関係』太田出版)

以前、著書のなかでこんなふうに書いた。この映画は、その極限の形だった。

彼らは音楽に死ぬほど真剣だからこそ、セッション=死闘なのである。そこには師弟なんていう甘ったるい関係性はない。なんでそこまで憎くて、いとおしいんだ、というほどの敵だけがいる。震撼した。

物語は、アカデミー賞3部門受賞(助演男優賞・録音賞・編集賞)の本作によって世界に知られた28歳の監督、デイミアン・チャゼルの実体験に基づいているという。映画全体で音楽への焦がれるほどの愛を表現する彼は、次回作でもピアニストを主役に据えている。彼は、映画のテーマについてこんなふうに語っている。

「チャーリー・パーカーのソロ演奏を聴くたびに、人々は至福の時へと誘われる。だからといって、その芸術のためにパーカーが耐えた苦しみのすべては、それだけの価値があったのだろうか? 僕にはわからない。でも僕にとってそれは、尋ねる価値のある問いだ」

「音楽に打ち込む埃まみれの努力のすべてを書きたい。折れたスティック、水ぶくれと切り傷だらけの手、絶え間なく続く拍子とメトロノームの音、そして汗と疲労感。同時に僕は、音楽がもたらす束の間の美しさをも表現したかった」

 

もう一度「なんで泣きたかったのか」と問われたら、その答えは「泣けるいい話だったから」でなければ、「セッション=音楽に高揚したから」だけでもない。

彼らが音楽を通して、唯一無二の好敵手を見つけた歓喜が、観る者に乗り移ったからだと思う。

少なくともあの束の間、彼らは幸福だったと信じている。

 

 

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