少女たちに寄り添ってきたルイ―ザ・メイ・オルコットの名作『若草物語(Little Women)』。
この小説を原作にした最新映画をグレタ・ガーウィグが監督するというニュースは、早くから注目の的だった。個性が異なる四姉妹の長女をエマ・ワトソン、そして主人公の次女ジョーを監督の盟友シアーシャ・ローナンが演じる! 幼馴染のローリー役にはなんと、ティモシー・シャラメ! と話題を集めてきた本作。
あまりに楽しみだったため、初号試写へ駆け込んだ(2/5)。
私は『赤毛のアン』より『若草物語』を人生のバイブルにするタイプの少女だった。原作への思い入れがありすぎ、1994年のジリアン・アームストロング監督版をあまりに愛しすぎているため、不安もあった。
しかし結論は、期待のはるか上。19世紀の少女たちの凛々しくいとおしい輝きはそのままに、21世紀のいま作られるべき「まったく新しい古典」として生まれ変わっていたのである。
自立した作家への敬意に満ちた
21世紀のすべての女性のための物語
なによりも印象的だったのは、主人公=原作者オルコットの分身としてのジョーの存在感だ。
冒頭から現実(大人のジョー)と回想(少女時代)が交互に展開する構成に当初は戸惑った。しかし途中で、その構成によって「ジョーがあのエピソードを綴ったのはなぜか」がダイレクトに伝わり、胸に迫ってくるのに気づいてゆく。
シアーシャのジョーはまったく「名作劇場の主人公」には見えない。1994年のウィノナ・ライダーはお転婆でフェミニズムの気概に満ちているとはいっても「いやだわ」とあくまで強気なお嬢さん風だった(もしいまが1994年なら、おそらくエマ・ワトソンがジョーを演じていただろう)。それなのに、シアーシャときたら言葉も仕草もまるっきり、私たちと「おなじ」なのだ。
自由を失うのが怖くて幼馴染のプロポーズを断ったくせに、仕事がうまくいかなくて自信喪失したときには「私、あのときイエスと言うべきだったのかな」と母親に弱音を吐いたり。オルコットの日記からの引用を巧みに差し込んだ台詞は、まるで鏡写しの自分を見ているように生々しく、はっとするものばかりだ。
そして、終盤のどんでん返しである。
たしかに今作のベア先生はなんだかいけすかないな、と思っていた。変にイケメンじゃないほうがいいのに。紳士だけど適度に苦労人で、天井桟敷が似合う感じがいいのに。マーチ家を訪れたときは誤解のせいですれ違って「もう、ハンナったら!」とジョーに言わせればいいのに……いや、好きな女の子の家族の前で弾くのがベートーヴェンの「悲愴」だなんてベタすぎるだろう。ローリーとエイミーは酸いも甘いもわかってる最高バディだったはずなのに、彼の存在を都合よく受け入れすぎだろう……今どき、少女マンガでもこんなご都合展開はないだろう。グレタ・ガーウィグ、急にどうしちゃったの?
不安をつのらせた末の、あのラスト。最高に粋で、挑戦的で、愛しかなかった。
体が震えるほど嗚咽しながら、生涯独身を貫いたオルコットを思い、「リベンジはしたよ」と拍手を贈った。
可能性は無限だと信じていた子ども時代を過ぎたとき、少女たちにとって、世界がいかに厳しいか。
しかし、21世紀のジョーは毅然と顔を上げる。映画に共感し、「自分らしく生きる」女性たちの姿を見て、オルコットもきっと笑顔を浮かべているはずだ。
(25ans 2020年5月号より、加筆修正中)※追加予定