『アンナ・ボレーナ』(2011) ©Ken Howard, Metropolitan Opera
――英国熱がおさまらない。
先日は、METライブビューイングのアンコール上映で、二度目の『ロベルト・デヴェリュー』を鑑賞した。
『ロベルト・デヴェリュー』は、『アンナ・ボレーナ』『マリア・ストゥアルダ』につづくドニゼッティ「チューダー朝女王3部作」の大トリ。全編をとおして影の主役でありつづけたエリザベス1世の最期を見届け、個人的に2015-16シーズンを締めくくったのだった。
エリザベス1世(Elisabeth I, 1533-1603) といえば、ゆるぎない英国の象徴。辺境の小国イングランドに黄金時代をもたらし、大英帝国の礎を築いたとされるのが、この「女王」という名の敏腕政治家だ。しかし――オペラから見えてきたのは、何度も愛を失い、そのたびに傷つきながら、「支配するためには私は生まれた」と自らを潔く見定めていく女性の姿だった。
エンタメでわかる英国史、最初の3回はこの女性の内面を探るべく、2011年から追いかけてきたMETライブビューイング「チューダー朝女王3部作」を振り返る。
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§「チューダー朝女王3部作」前史§
チューダー朝とは、ドラマ『チューダーズ』『ウルフ・ホール』でおなじみのヘンリー8世やエリザベス1世が君臨した、イングランド絶対王政の最盛期だ。年代的にはおもに16世紀、1485年から1603年の118年間。英国ルネサンスが開花し、ホルバインやヴァン・ダイクの絵画、トマス・タリスやウィリアム・バード、ダウランドなどの音楽やスペンサーの詩、シェイクスピアの演劇などが生まれた。
その前は、いま『薔薇王の葬列』や『ザ・ホロウ・クラウン』で話題の薔薇戦争。プランタジネット王朝を継承するヨーク家とランカスター家による内戦に決着をつけたのは、ヨーク家のリチャード3世を破ったヘンリー・チューダー(ヘンリー7世)だった。
彼がランカスター家の名を継がなかったのは、直系でなく傍流のぽっと出だったため。そこで、和睦の意味もこめてリチャード3世の姪(エドワード4世の娘)を王妃とし、さらに長男は伝説の王の名をとってアーサーに。さらにアーサーの妃として、名門スペイン・ハプスブルク家から王女キャサリンを迎え箔をつけたのである。
ところが、アーサーは挙式から半年足らずで死去してしまう。持参金を返したくないヘンリー7世は、キャサリンと次男を再婚させる。これが、のちに6人の妻を娶った絶対君主ヘンリー8世だった。
§ 第1作『アンナ・ボレーナ』§
『アンナ・ボレーナ』はオペラファンにとって、世紀の歌姫マリア・カラスが復活させた名作ベルカント*1オペラとして有名だ。
オペラファンでない人にとっては耳なじみのない名前かもしれないが、イタリア語のタイトルを英語に戻して『アン・ブーリン』にすれば、思い当たる人も多いのではないだろうか。
そう、このオペラの主役は、ヘンリー8世2番目の王妃にしてエリザベス1世の母、映画『ブーリン家の姉妹』でもおなじみのアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507?-1536) なのである。
作者不詳『アン・ブーリン』1533年 ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
肖像画と見比べると、冒頭のラ・トゥールの絵画のように美しいメイン・ヴィジュアルの衣装が、隅々まで作りこんであるのがわかる。下の画像では、忠実に再現されたBoleynのBをかたどったイニシャル・ペンダントを見つけることもできる(衣装のジェニー・ティラマーニについては後述)。
ちなみに、左にいる赤毛の女の子はもちろん、のちのエリザベス1世だ。
アン・ブーリンは、駐仏大使トマス・ブーリンとノーフォーク公女エリザベス・ハワードの次女として生まれた。フランス宮廷に仕えたのち帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリンの侍女となったが、やがてヘンリー8世に愛人になるよう求められる。
アンが「Queen or nothing(王妃の座か、さもなければ拒否か)」と宣言したことにより、ヘンリー8世はローマ教皇にキャサリンとの「婚姻の無効」を求めた。カトリック教会は離婚を認めないが、「婚姻の無効」という認可によって事実上の離婚ができたからだ。
ところが、キャサリンの国民的人気に加え、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の反対もあって、教皇庁は許可を出さなかった。ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁と断絶。こうしてイングランド国教会が生まれたのである――というのはご存知のとおり。
オペラはエリザベスが誕生して3年後、この偉大な女王の人生に決定的な影を落とす「母アンの処刑」を描く。
エリザベスが誕生したとき、王子誕生を望んでいたヘンリー8世(イルダール・アブドラザコフ・右)は落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アン(アンナ・ネトレプコ)は、王女の身分を剥奪され庶子に落とされた前妻キャサリンの子メアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要したという。
アンはまた贅沢を好み、衣装や宝石に浪費した*2。ヘンリー8世はしだいにアンの侍女ジェーン・シーモア(エカテリーナ・グバノヴァ)へと心移りし、アンへの愛情は薄れていった。
愛を失ったことに苦悩するアンのもとに、追放から許され戻ったかつての恋人ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシー(スティーブン・コステロ)が訪れ、愛を迫る。ところがパーシーの求愛が露見し、それを口実にアンは王に幽閉されてしまう。
図らずともアンを裏切ってしまったジェーンは、罪の意識からアンに王の愛人となったことを明かし、命を救おうと奔走する。しかし、アンは拒否。新しい国王夫妻の誕生が告げられた時、彼女はもはや正気を失っていた……。
1536年5月19日、アン・ブーリンは反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔で斬首刑に処せられた。
この歴史的悲劇、ひいてはその後の英国を担った女王エリザベス1世に(たぶん)魅了されたのが、19世紀オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティだった。1830年12月の初演は「圧倒的な成功」をもたらし、ドニゼッティは一躍ロッシーニやベッリーニと並ぶスターとなった。『ルクレツィア・ボルジア』など歴史を題材にした作品は多いが、わりと英国ものが目立つ。
そこに目をつけたのが、METの総裁ピーター・ゲルブだった。「きれいなお歌中心でドラマがない」と不当に評価されがちなドニゼッティ、ひいてはベルカントオペラの再評価を迫るため、16世紀の英国王室を題材にした作品をグルーピングし「チューダー朝女王3部作」としてフィーチャー。ネトレプコをはじめとする看板歌手たちをキャスティングし、2011年、新シーズンのオープニングとしてこの3部作のスタートを大々的に宣伝したのである。
演出に起用されたのは、スコットランド出身の売れっ子デイヴィッド・マクヴィカー。基本の物語はそのまま、時代の置き換えなどはせず、エレガントでゴシックですこしだけデカダンな舞台装置の上でとにかく歌手を動かし「演技」させ、現代人が楽しめるテンポとドラマで魅了する――さすがゲルブ、このプロジェクトにぴったりの逸材だ。
また、もう一人の影の主役は前述の衣装ジェニー・ティラマーニ。服飾史の専門家である彼女は、自称「ファッション探偵」。以前はグローブ座にも在籍していたという。前述の肖像画やホルバインによる『ヘンリー8世』などの絵画や史料を読み解き、観察し、当時の衣装の色や形を再現していった。
マクヴィカーはあきらかにこの3部作を「エリザベス1世をめぐる3人の物語」、あるいは「3人を通して知るエリザベス1世の素顔」として構想しているようだった。私は歴史を学ぶ者として、16世紀にトリップする愉悦と、心理ドラマとしての新しい視座にものすごく興奮したのである。
中野京子さんによると*3、45年の間女王として君臨したエリザベスは、ことあるごとに「ヘンリー8世の娘」と口にしたが、公的な場で母「アン・ブーリン」の名を口にしたのはわずかに2回だけだったという。
完全なる「父の娘」エリザベス。
父王の女性遍歴や腹違いの姉メアリーとの確執、そしてこの壮絶な母の最期は、彼女の人生にどのような影をおとしたのだろうか。
それはこのあとの物語で、少しずつ明かされていく。
次回は、エリザベスと激しく対立した生涯のライバル、スコットランド女王メアリー・スチュアートこと『マリア・ストゥアルダ』について。
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