これまで語ってきたとおり、わたしのなかのヴィクトリアンおよび英国のあらゆるイメージは、これまで接した書物や映画の蓄積だ。
なかでも大きな存在が、世界名作劇場とグラナダ版ホームズ、そして萩尾望都である。
どれくらい大きいかというと、実際にロンドンの街を歩いていて、
「この建物は萩尾先生の“実物”とちょっと違う」
と考えてしまうくらい病的に大きい。
萩尾望都というと「ギムナジウム=ドイツ」という図式もあるが、おそらくいちばん多くの作品の舞台となっているのが英国ではないかと思う。
まず代表作『ポーの一族』の主たる舞台がそうであるし、一連のバレエ漫画のカンパニーもロンドンに拠点を置いている。
そして、おそらくこの作家の最長篇となるだろう『残酷な神が支配する』(1992~2001年「プチフラワー」連載/小学館)。
萩尾望都の人間観察と心理劇の集大成であるとともに、その英国マニアぶりが遺憾なく発揮された作品だ。
物語については語っても語り尽くせない。
おかしな先入観を持ってほしくないので、「あらすじ」として生半可に紹介するのも憚られる。それほど大切な作品である。ただ、読んでほしい。
ここで紹介したいのは、作品のなかの英国“萌え”だ。
まずは主人公の義兄にして語り部であるイアン・ローランドの英国紳士っぷり。
オレサマな言動で不良を気取るが育ちのよさが抜け切らない、典型的な王子キャラ。私には、この人物だけで一冊の本を作る自信と愛がある。
(コンテンツは「俺様イアン様の“思わず言っちゃった”名(迷)言集」「おしゃれ泥棒 by イアン・ローランド」「料理上手な男でモテ!レシピ」「イアンと旅する南イングランド」「オペラ講座(ドイツ偏愛)」「参考文献一覧」など)
イアンは、物語のなかの「英国」を体現する人物でもある。
ローランド家は貴族ではないが祖父の代から続く裕福な商家で、実家は郊外の大きなマナハウス。
当然イアンは幼い頃から名門パブリック・スクールに通い、波乱万丈ののちにはケンブリッジへと進学する。
物語中盤、義兄弟が移り住んだハムステッドのタウンハウスは、 必要最低限の間取りながら空間は広く、クラシックと前衛が程よく混ざり合ったイアンらしい趣味だった。
「英国の家」については、萩尾望都自身が以下のように語っている。
イギリスで何が一番好きかと聞かれたら、考えたあげく“家だ”とわたしは答える。
“イギリス人の家は彼の城”だっけ?
諺があるほど、家の住み心地がいい。
窓とカーテン。ドアマット。個室。階段。トイレ、流し、バスルーム。少なすぎず多すぎないほどよい空間。灯。テーブル。椅子。円庭。
そして、住宅地の静けさと落ちつきと緑の大木。
安らかな夜、鳥の鳴く朝。
寒い日も暑い日も、家は心地よい。
『残酷な神が支配する』第13巻(小学館,1999)
まさにそのとおりのイアンとジェルミの生活スタイルを、いくたび真似たことか。
下っても1970年代当時までを舞台にした『ポーの一族』やイアンの実家リン・フォレスト、ジェルミの女友達マージョリーの部屋などにはもっとロマンティックで手のこんだ描写がたくさんあるのだが、あえて現代のロンドン生活に憧れるのは、限りなくリアルなヴァーチャル体験ができるからだろう。*2
しかしやっぱりどこかレトロで上品、なにかあったら紅茶をいれて話し合うイアンとジェルミは、わたしのなかで格好の英国モデルなのである。*3
英国といえば紅茶、そして朝食。
イアンとジェルミは男子にしてはよく自炊をするほうで、朝も卵料理が定番だ。
忘れられないのは序盤のリン・フォレストでの朝食シーン。
執事やメイドも立ち働くこの屋敷では、朝食には朝食用の食器が用意され、晴れた休日にはテラスにテーブルを出しブランチとあいなる。
「奥様の朝のティーはオレンジ・ペコだよ ハンナ」
と主人がのたまえば、
「ミルク多めにでしたね」
と答えが返る。
家族ごっこの傍らでジェルミは俯き、“遊び人”イアンは不在である。
*1:
2013年1月追記:実際、これをもとにマンガ×音楽本『マンガと音楽の甘い関係』(太田出版刊)を作りました。
*2:おかげで輸入食材店でさまざまな調味料やペーストやジャムをそろえるのが好きになったわたしだが、はじめてハロッズの食品売り場に行ったときの感動といったら! バード印の粉末カスタード、ボヴリルのビーフ・エキス、コルマンの粉マスタードなどはヴィクトリア朝時代に発明されたが、いまもそのままの姿で棚に並んでいるのだ! 萩尾望都の世界へ迷い込んだかと思った!
*3:萩尾望都が描いた食べものは、それがコンビニのポテトサラダ(『バルバラ異界』)だろうがカップヌードル(『海のアリア』)だろうが、おしゃれフードに見えてしまうのだから、やはり病的としか言いようがない。