乙女のタカラヅカ案内:わたしが愛する3つの理由

こんばんは、高野麻衣です。

2週間あまりにわたったラ・フォル・ジュルネ全国ツアー(新潟、京都、東京)とその残務も終え、すこしほっとした週末。ごほうびに、東京公演がはじまったばかりの宙組『モンテ・クリスト伯/Amour de 99!!』を観劇してきました。前半はともかく、後半のレビューに涙が流れっぱなし。なぜってそこに、タカラヅカという「花園」を愛し慈しんできた男たちのドラマが、たっぷりつめこまれていたから。

宝塚歌劇団は、来年で創立100年を迎えます。

『Amour de 99!!』は99年分の愛をテーマに、昭和のステージを彩ってきた名演出家たちの代表作を、メドレー形式で紹介していくショウでした。登場するのは、ムッシュ・ディニテ(気品)内海重典、ムッシュ・エレガンス(優雅)横澤英雄、ムッシュ・シャラール(暖かさ)高木史朗、ムッシュ・ボーテ(美しさ)小原弘稔、ムッシュ・ヌーヴォーテ(斬新さ)鴨川清作という先生方の面影と、その華麗な作品たち。

たとえば、『ロシュフォールの恋人たち』そっくりの衣装で恋人たちが跳ねまわる「ボン・バランス」(1975)とか、はじけまくるサンバ「リオのリズム」(1960)、『泥棒紳士』を下敷きにした「パッシィの館」(1986)…… なかでも、高木先生の名曲「タカラジェンヌに栄光あれ」。「私は夢を売るフェアリー……」というイントロがはじまった途端に胸が熱くなりました。

タカラジェンヌ タカラジェンヌ わが憧れ 幻の園に咲くレビューの花

これほどの自画自賛ソングを、私は見たことがありません。この歌詞を書ける高木先生の愛って!

そしてこのレビュー『Amour de 99!!』を演出した藤井大介こそ、タカラジェンヌを、その歌劇の歴史そのものを愛しているムッシュ・アムール(愛)そのもの。藤井先生の演出はいつも、偉大な先達たちはもちろん、タカラジェンヌと「乙女のアコガレ」に対する愛と、尊敬に満ちているのです。

気品、優雅、暖かさ、美しさ、そして斬新さ。 そう、私がタカラヅカからいつも感じるのは、「乙女のアコガレ」への力強い肯定だったのです。

 

■タカラヅカ・新3大「乙女のアコガレ」要因

1) プリンセス願望、全肯定

花園magazineをご愛読のみなさまにはもはや説明の必要もないかと思いますが、念のため申し上げますと、私のご贔屓は星組トップ娘役・夢咲ねね(右)です。私にとって彼女は推しメンというより、「ねねちゃんになって、柚希さん(左・星組トップスター)のような男の隣で生きたい」と思えるアクチュアルなアイコンです。「姫として生きること」についても、多くを教えてもらっています。

フェミ的な「夢咲ねね論」に関してはいろんなところで書いているので割愛しますが、こういうドリー夢的な楽しみ方、昔のロマンス映画か少女マンガでしかお目にかかれない設定(世界史ファンの強い味方でもある)やドレスやアクセサリーに耽溺できるのもタカラヅカの醍醐味。帰り道、ついレースのティッシュケースやばらの紅茶を買ってしまったり、おばあちゃんを連れてきたいなんて考えたりしながら、「女の子でよかった!」と心から叫んでしまうのです。

ザ・タカラヅカVI 星組特集 (宝塚ムック)

ザ・タカラヅカVI 星組特集 (宝塚ムック)

2) チーム男子ばっかり

「タカラヅカに夢中」と報告すると、昔馴染みの友人にこう言われます。「あんなに少年ジャンプやBLが大好きだったくせに、変われば変わるもんだね」。 答えは簡単、まったく変わっていません!

タカラヅカ=女の園のイメージは根強いし、もちろん事実なのですが、ステージの上で演じられるのは男女のロマンスであり、男同士の友情なのです。しかも「男役」が絶対の上位にある以上――そして「乙女のアコガレ」を描くのが使命である以上、「男役×男役」の名シーンが山ほど生まれるのは必定。トップスターと二番手男役の対決やバディ感、オフでじゃれあう姿まで含めて、そのときめきはマンガやジャニーズとまったく同種のものです。(ちなみに最近の若手男役はK-POP風!)

とりわけ近年は、アニメやゲームとのメディアミックスも進み、こうした傾向が強まっています。きわめつけは、ヅカ版『ブロークバック・マウンテン』の呼び声も高い『the WILD to the WILD』。ここまできたか、とファンの熱いため息を誘っている話題作も控えているのです!

物語を演じるスター(3次元)より、往々にしてキャラクター(2次元)を愛してしまう私にとって、「男役」の彼らは……と素で書いてしまうくらい、ナチュラルに「男」。ロマンシスというより、だんぜんブロマンスなんです。百合っぽい雰囲気は苦手だから、なんて思っているひとがいたら、すごくもったいない!!

 

3) 清く、正しく、美しい!

劇団の生まれ故郷・宝塚を訪れたこともまた、私にとって大きな転機でした。 http://hanazonomagazine.wordpress.com/2012/11/21/

遅れてきた渋谷系を自負し、なにごとも洗練されたものが好きだった私は、自分がヅカファンになるはずなどないと信じていました。

たとえば代表作の『ベルサイユのばら』。テレビでしか見たことがなかったときには、震えるほどの怒りを感じたものです。古臭い演出と女々しいオスカル。音楽は演歌だし、装飾だってチープじゃない……? でも、はじめて日比谷の劇場に連れられていったとき、礼儀正しい観客や、親切な店員さんの存在に、不思議な心地よさを感じたのです。それが、はじまりでした。

宝塚(あるいは関西文化圏?)という風土は、「過剰」を魅力に変えてしまうパワーを持っています。あふれんばかりのパステルカラーに、フリルとリボンの洪水。それはサンリオショップや『りぼん』の全サ付録を思い出す「ファンシー」な、「女の子」をめいっぱい楽しむためのマニエリスム、一種の美学なのです。 そこではリアリズムなど野暮だし、洒落はあっても皮肉はいらない。過度な暴力もセックスもいらない。まるで、大好きなウディ・アレンやエリック・ロメールの映画のような、あえての虚構の世界だったのです。

「すみれコード」に守られたこの世界を愛するからこそ、私は、自分自身が、清く正しく美しいファンであり続けたいと感じています。 とびきりきれいに装って、劇場のヒロインになること。ときめきだけを胸に、ショウを愛し続けること。だって、「スターのため」ではなく「女の子が美しくあるため」に、99年の愛は存在しつづけているのだから。

(花園magazine 初出)

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